小春网

 找回密码
 注册账号
楼主: 白桜
收起左侧

日本民俗文化

[复制链接]
 楼主| 发表于 2007-2-4 00:52:00 | 显示全部楼层
名目繁多的京都祭日本的“祭”作节日讲,与中国“祭”的含义不尽相同。日本的“祭”名目繁多,它作为一种传统文化,与其历史大有渊源。因此,越是古老的城市,“祭”就越特别地多。京都作为有一千余年历史的古都,除了有很多值得骄傲的名胜古迹外,还有许多古老的节日点缀着它过去的光荣历史。其中最著名的就是五月的葵祭,七月的祗园祭,以及十月的时代祭。+……春之祭典……+被群山包围的京都,春天是满城的樱花飞舞,在这“花见”的时节感受春天的气息,沉浸于季节更迭的微妙感受,是日本人特有的习惯。造访岚山、嵯峨野等地,沉醉于百花的风情中,使人犹如置身于诗画般的境地。身着华丽的衣饰,在微风中翩翩起舞的艺妓们,伴随着优雅的和琴声,重现着昔日葵祭的纷繁场面……“葵祭”是京都三大重要祭典之一。祭典起源于庄稼歉收时所举行的祈祷五谷丰登的祭祀仪式,是平安时代最重要的官祭之一。祭典从京都御所的建礼门前出发,经过下鸭神社,缓缓走向上贺茂神社,路程总计约8.2公里。祭典所用的牛车等交通工具上都装饰着新鲜的嫩叶,由穿着平安时代风格华丽王朝服饰的==队伍簇拥着,走过古老而又绿意盎然的京都大道......三月春之人形展—(宝镜寺)幼盘会—(东福寺&泉涌寺)桃花神事—(上贺茂神社)松明祭—(清凉寺)千本释迦念佛—(千本释迦堂)元正上人御祭—(瑞光寺)唐棣舞蹈祭—(随心院)四月都舞蹈会—(祗园)献花祭—(伏见稻荷大社)京舞蹈会—(宫川町)花祭—(清凉寺)安乐祭—(今宫神社)樱花祭—(平野神社)水口播种祭—(伏见稻荷大社)十三参拜—(**寺)春季大祭—(白峰神社)北野舞蹈祭—(上七轩)樱祭—(地主神社)壬生狂言—(壬生寺)曲水之宴—(城南宫)    五月鸭川舞蹈会—(先斗町) 流镝马神事—(下鸭神社) 藤森祭—(藤森神社) 山荫社例祭—(吉田神社) 金比罗大祭—(安井金比罗宫 御荫祭—(下鸭神社) 十三参拜—(**寺) 葵祭—(下鸭神社&上贺茂神社) 御灵祭—(下御灵神社&上御灵神社) 三船祭—(车折神社&岚山) 降诞会—(西本愿寺) 鳗放生会—(三岛神社) 集平祭—(十轮寺) +……夏之祭典……+在祗园蝉鸣声中,京都入夏了。盛夏的京都,笼罩在潮湿闷热的空气里。每年的这个时候,传统旧式建筑的家庭,就会开始将房间的纸拉门换成通风更佳的苇草拉门,座垫、地毯等也要改成藤制的散热型质材,给房间带来一片夏日的凉爽气息。此外,京都的住民们还另有一套户外的消夏方式。鸭川沿岸的料理店,纷纷搭起2、3米左右的棚架,供过客歇息。在这洋溢着昔日风情的纳凉棚架上,一边品尝着各式冰凉小点,一边眺望那东山夕阳西下的美景,何等的潇洒快意~八阪神社御旅所(Yasaka-jinja Odabishio)是四条通南侧的古代繁华街道,如今仅剩一间古色古香的老店铺。不过从前此地一直是每年“祗园祭”时,八阪神社的神轿==地点,至今这项古例仍然不变。祗园祭据说是为了防止水灾后疫病发生的祭祀。每年的祗园祭是由7月17日到24日,这段期间每天神轿都会经过一次,供善男信女膜拜。六月贵船祭—(贵船神社)京都薪能—(平安神宫)鸭川床开会—(鸭川畔)荣西祭—(建仁寺)信长祭—(本能寺)田植祭—(伏见稻荷大社)紫阳花祭—(藤森神社)竹伐会式—(鞍马寺)天神祭—(北野天满宫)夏越祓—(市内各神社)七月岚山鹈饲祭—(岚山) 祗园祭.取式—(八坂神社)御手洗祭—(北野天满宫)陶器市—(千本释迦堂)祗园祭.御輿洗祭和迎灯祭祗园祭.宵山祗园祭.山鉾巡行おすずみ—(城南宫)陶器祭—(清水燒團地)本宫祭—(伏见稻荷大社)祗园祭.花伞巡行南瓜供养—(安乐寺)   祗园祭.御輿洗祭   散之轮神事—(御香宫神社)   八月 陶器祭—(若宫八幡宫) 六道参拜—(千本释迦堂) 万灯供养会—(壬生寺) 东大谷万灯会—(东大谷) 花背松上—(花背)大文字五山送火祭(大文字山) 六斋念佛舞蹈祭—(上善寺) 千灯供养—(化野念佛寺) 云之田松上—(云之田) 吉祥院六斋念佛舞蹈祭—(吉祥院天满宫) 久世六斋念佛舞蹈祭—(藏王堂光福寺) +……秋之祭典……+京都枫红的醉人景致,从平安时代开始,就广受文人骚客的偏爱。在人们或以诗,或以文的经久传颂下,盛名广为人知。京都在时节渐入初冬之时,便有如雾般的细雨降至大地,人称“北山时雨”。随着这连绵细雨地不断滋润,洛北的群山开始依序披上耀眼的橙黄色彩。赏枫的著名景点-高雄(不是台湾的那个...b),在北山杉的自然背景的映衬下,枫叶的金黄艳红便显得越发的夺目。漫步于充满了清澄空气的山林中,体会着山林的静谧,欣赏着遍山的枫红,真是浪漫非常...1895年,京都人建造了平安神宫,名义上说是为了纪念平安京的创建者和在此的最后一位天皇,实际上是以此表示对平安这一“时代”的怀念。由于神宫的落成大典在是年10月22日举行,于是这一天便成了节日,“时代祭”由此而生。以后的每年一度,人们到此举行纪念活动,怀古而求新,增强时代感;并把活动范围从(神)宫内扩大到宫外,参加的人也越来越多,==官员等社会名流也成为“志愿者”,因此成为京都乃至全日本有名的大“祭”。祭中,一队队穿戴京都各个“时代”(朝代)服饰的队伍接踵而至,足有两三千人的“时代服装表演集团”浩浩荡荡,招摇过市,通过京都的主要街道,首尾延绵数公里,向祭典的集结地平安神宫缓缓行进。放眼望去,好似一幅富有动感、十分逼真的历史画卷,演出着古都京城时代变迁的历史。九月八朔祭—(松尾大社)鸟相扑—(上贺茂神社)御田刈祭—(大原町神社)放生会—(三八幡)荻祭—(梨木神社)例祭—(丰国神社)彼岸法要—(即成院)千日功德会—(金藏寺)金比罗栉祭—(安井金比罗宫)十月瑞馈祭—(北野天满宫)栗田神社大祭—(栗田神社)讲员大祭—(伏见稻荷大社)人形供养—(宝镜寺)日向大神宫大祭—(日向大神宫)二十日惠比寿—(惠比寿神社)时代祭—(平安神宫)鞍马火祭—(由岐神社)拔穗祭—(伏见稻荷)十一月 祗园舞蹈祭—(祗园会馆) 曲水之宴—(城南宫) 念佛会—(真如堂) 红叶祭—(贵船神社) かにかくに祭—(祗园白川) 火焚祭—(伏见稻荷大社) 岚山红叶祭—(岚山) 大护摩供—(法住寺) 报恩讲—(东本愿寺) 圣德太子火焚祭—(广隆寺) 笔供养—(东福寺正觉庵) 献果祭—(平安神宫) 御茶壶奉献祭—(北野天满宫) +……冬之祭典……+--三十三间堂的初拉弓会入冬以后,京都的空气变得寒澈心肺。不过,也就是在这样严苛的气候环境下,才能产生出京都特有的绝品料理。圣护院芜菁,九条葱等京都著名的蔬菜,都是拜这样的严寒所赐,才生长的如此青葱脆嫩。此外,闻名全日本的伏见酒,也是在京都特有的甘甜水质和冷冽气候下发酵而成的。十二月献茶祭—(北野天满宫)大根炊祭—(三宝寺) 大根炊祭—(千本释迦堂) 针供养—(**寺&针神社) 终金比罗—(安井金比罗宫) 隐念佛—(六波罗蜜寺) 义士祭—(山科保胜会) 扫尘月—(山科保胜会) 扫尘月—(西本愿寺&东本愿寺)终弘法—(东寺) 终天神—(北野天满宫) 钻火式—(八坂神社) 白术参拜—(八坂神社)   除夕之钟—(京内各寺)一月新春参拜(京内各神社) 歌留多开年祭—(八坂神社) 蹴鞠开年祭—(下鸭神社) 初惠比寿—(惠比寿神社) 初金比罗—(安井金比罗) 裸舞蹈祭—(法界寺) 七福神巡—(泉涌寺)   初拉弓会—(三十三间堂) 汤立神乐—(城南宫) 初弘法—(东寺) 初天神—(北野天满宫) 初不动—(狸谷不动院) 二月节分祭—(京内各寺、社) 针供养—(**寺) 七车粥—(城南宫) 五大力尊仁王会—(醍醐寺) 幸在祭—(上贺茂神社) 梅花祭—(北野天满宫)==[补]关于夏祭中的“大文字五山送火祭”==阵雨过后凉快了许多。鸭川沿岸搭出的料庭铺台上,坐满了等待看大字火的人们。结伴走在河滩上的人群,一拨接一拨。桥上也全都是人。但是却能听见青蛙的叫声。仿佛身在寂静的田园溪水畔。东山的轮廓已经沉入暮色中,铺台上的纸灯也熄灭了。如意岳方向从大字第一撇开始,一点点浮现出了火焰的排列。画出了横线,又划出了右边的一捺,红色的烟雾升上天空。现在,通红的大文字浮现在暗空中。尽管那只是短暂的光辉。人们静静地眺望着。有的艺妓用盆里的水倒映出大文字来祈祷。将远处的火倒映在手里的一盆水中——她在祈祷什么呢?大概人们都满怀感慨地注视着这瞬间燃烧在夏夜天空中的文字吧。随着一阵骚动,人们从铺席上站了起来。北面山坡隐约出现了“妙”的火字。——东山魁夷《京洛四季》==五山送火==每年8月16日的晚上,京都的夜空都会被火焰染得通红。别误会,这并不是什么祝融作祟,而是京都最著名的祭典之一——“五山送り火”的壮观景象。送り火这个词原本是指 将盂兰盆节期间回来探望的先祖灵魂(お精霊さん)送回冥府,同时祈求先祖保佑生者平稳安康 的佛事活动,后来渗透到民间,成为了家家户户都会遵循的年中行事之一。由于京都的盂兰盆节为8月13日到16日(关东地方为7月13日-16日),因此经历了13日的迎え火(迎先祖)之后,最为隆重的活动就是16日的送り火了。最早的送り火形式是将松明点燃抛向空中,为的是替先人们照亮回归冥府的路。演变到现在的“五山送火”,则是在环绕京都的五座山上燃起形状固定的山火为先祖镇魂。按照佛教的说法,即唱响“南无妙法莲华经”,用人形之火送先祖乘风归十万亿土彼方,以祈生灵之福。所谓的“五山”分别指東山如意ケ嶽的“大文字”、松ケ崎西山(万灯籠山)与東山(大黒天山)的“妙·法”、西賀茂船山的“船形”、大北山(大文字山)的“左大文字”以及上嵯峨曼荼羅山的“鳥居形”。燃烧时间均为30分钟。▼大文字▼五山中最早点火的一个(晚8点),也是最为人们熟知的一个。点火当晚,如意ケ嶽弘法大师堂内照例会响起般若心经的诵读声,在一片“色即是空,空即是色”的唱喏中,堂内的灯火被移出到场地上,点燃“大”字第一划的松明,五山送火仪式正式开始。关于如意ケ嶽大文字的起源,有两种传说。一是平安初期,如意嶽山下的净土院(大文字寺)发生火灾,院内供奉的本尊阿弥陀如来于火光中闪烁着,向着东山山顶飘飞而去。此后京内疫病流行,尽管僧人们设立了各种祭坛补救,疫情还是没有起色。当时的弘法大师见状,将如意嶽上的火坛改成象征人的“大”字形,这才退散了疫神,而后又演变成大文字送火。另一种说法是室町中期,足利义政将军为了悼念近江之役中战死的儿子义尚,命家臣在山侧用白布布置出“大”字形,为死者祈求冥福,后再演变成今天的送火仪式。▼妙·法▼五山中第二个点火(晚8点10分)。这两个字分别位于松ケ崎的两座山上,“妙”字在西山(万灯籠山),“法”字在东山(大黒天山),同时点火。由于两山都在京都市东北部,面向北山大道,因此算作一对按一山记。“妙”据说源自镰仓末期法华宗僧人日像改天台宗为法华时,于西山上所书的“妙”字,“法”则是战国末期才出现的。▼船 形▼五山中第三个点火(晚8点15分),以西方寺鸣钟为准。送火仪式终了后还有非常有名的盂兰盆节固定行事—西方寺六斋念佛会。 关于“船形”也有典故。公元847年,西方寺的开山祖师慈觉大师自唐土归日的途中遇上了暴风雨,他面对巨浪诵起南无阿弥陀佛,最终平安回到了日本。这“船形”据说就是大师乘的那条船,又称“精灵船”,船首直指西方极乐。▼左大文字▼与“船形”同时点火(晚8点15分)。 外形酷似东山如意ケ嶽“大文字”,并且位于京都市西部的大北山中,因此得名“左大文字”。不过,它与如意嶽的“大文字”相比,无论是规模还是点火方式都完全不同。据说,“左大文字”比上述三个造型出现的要晚,大约是江户中期才有的,至今只有300多年的历史。▼鸟居形▼五山中最后一个点火(晚8点20分)。 宕因为“鸟居形”所用的松明并没有经过捆扎,因此火势蔓延的很快,火焰高涨,可以说是五座山火中最雄壮最漂亮的一个了。关于鸟居的造型,一说是仿爱宕神社参道上的鸟居而来的。也有人说是出自平安朝弘法大师刻千体石佛,进行开眼供养时点起的火坛造型。==小知识==◆虽然日本其他地区几乎都称“五山送り火”为“大文字焼”,但是,在京都人面前绝对不能这么叫。对于自古受佛教影响渗透极深的京都人来说,五山送火是将先祖送往另一个世界的神圣宗教仪式,跟一般的“山焼”(烧掉山上的枯草)是不能相提并论的。再加上日本一般称烤的食物为“焼き”,也难免京都人会有抵触情绪了…◆在点火之前的几天里,五山送火的担任寺院里也会人头攒动。这就是京都的居民们来送護摩木的景象。護摩木是用来点火的引子,人们把先祖的名讳以及家人的名字年龄写在上面,交给僧人们拿去烧掉,就可以托先祖保佑自己一家平安了。◆大文字点火以后,一些虔诚的京都人会拿酒杯装满水,让燃起的“大”字映在杯中,他们相信,喝掉映过火光的水可以实现愿望,去病消灾。◆送火结束的第二天,这五座山上也是相当热闹的。人们纷纷用带来的白色奉书纸包起一点燃尽的炭灰,拿回家用纸绳系好挂在玄关。据说这样有防盗免灾的作用。——个人比较喜欢祗园祭。 还有冬季青森的祭典。 燃烧了千年的天空~~ 夕阳下的河川~~ 不变的太鼓~~ 不变的风~~ 一点一点勾勒出日本的魅力。
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2007-2-4 01:00:00 | 显示全部楼层
姑獲鳥 (うぶめ)  産後死んだ婦人の霊が化したものという。 血に染まった赤い腰巻をまとい、子どもを 抱いて、連れ立ってゆく人を追いかけると いう。  西鶴『好色一代女』巻六「夜発の付声」では 一代女が堕胎した九十五,六人の水子の幻が うぶめの姿で現われる。 雨女 (あめおんな)  宋玉の「高唐賦」に、先王が、夢に現われた 巫山の女を愛し、その女が立ち去る時に 「朝には雲となり、暮れには雨となり、朝な夕な 陽台の下で会いましょう」と言い残したとある。  ここから「朝雲暮雨」は男女のひそやかな交 情を言う。巫山の神女とは赤帝の娘、姚姫の ことだという。 人魚 (にんぎょ)  石燕の説明は「和漢三才図会」によって中国 風だが、日本にも人魚の例は多い。  「日本怪奇妖怪年表」では、四八〇年八百比 丘尼、人魚の肉を食う、の記録が最初。 濡れ女 ぬれおなご、ぬれよめじょの名で伝えられ ている妖怪がある。磯女と同じような海の 妖怪で、全身水浸しになって海から出てく るといわれる。   出典:「画図百鬼夜行」     国書刊行会 髪は長く人面だが、身体は蛇のようで、 尻尾は三町(三二七メートル)先まで届く ので、これに出会ったら最後、どんなに 逃げても必ず巻き戻される。 飛縁魔 (ひえんま)  飛縁魔はもと仏説より出た名で、女犯を 戒めた詞である。  飛縁魔に魅入られたものは、財産は言う までもないこと、身の腎精浄血(じんせいせ いけつ)までも吸い取られ、遂にはこれのた めに命を失うのである。 雪女 (ゆきおんな)  「雪女」は雪の降る晩、山小屋などに現れ、 泊まっている人間に氷のような息を吹きかけ、 死に導くと信じられている。  また、奇跡的に助かった人間でも、「雪女」 に出会ったことを話すと、その人は命を奪わ れてしまう。 文車妖妃 (ふぐるまようひ)  「諸国百物語」巻三には、美しい稚児に懸想し て与えた文が、投げ捨てられて縁の下にたまり、 執心が積もって火となり、稚児の懐に入ったとい う話がある。一休和尚が焼き払って得脱させた とも。「付喪神絵巻」には文車ならぬ文台の 「古文先生」の妖怪が出る。 煙々羅 (えんえんら)  煙の精霊で、さまざまな姿になりな がら大気中にさ迷っている。  農家のかまど、または焚き火の中 に、この煙々羅を認めることがある。 返魂香 (はんごんこう)  楓に似た花と葉をもち、芳香を百里に 放つという返魂樹より作られた霊香。死 者の魂を呼び戻すと信じられた。    謡曲『花筐(はながたみ)』は武帝と 李夫人の故事を語った曲。 骨女 (ほねおんな)  牡丹花の灯籠を童女に持たせて、女は毎夜 尋ねて情を交わす。隣の老人が見たのは、 骸骨に向い合う男の姿であった。  浅井了意「伽婢子(おとぎぼうこ)」巻三 「牡丹灯籠」あたりから日本人を引きつけて やまなかった怪談である 魍魎 (もうりょう) 「魍魎」は木石の怪ともいわれるが、一般には 死者を食べる妖怪と考えられている。 姿は三、四歳の子どものようで、赤黒い色をし ている。目は赤く、耳は長くてふさふさとした髪 をもち、亡者の肝を食べるのが特に好きである。 昔から、墓地の辺りに住み、葬式の時には棺桶から死者を引きずり出して食べることもあった。 座敷童子 (ざしきわらし)  東北では、古い家には童子(わらし)がいると 信じられている。  そこの主人でもなかなか姿は見えないが、 童子は、赤い顔をして子供のようであり、家に住 みついている時には家は栄えるが、これが逃げ 出すと、家は衰えてゆく、といわれる。夜中に 原因不明の音なぞがすると、座敷童子のせい にされたりする。 火車 (かしゃ) 愚俗の言い伝へに其ノ生涯に悪事を多くせし罪により、 地獄の火車が迎えに来たりしといふ。  後に其ノ屍を引裂き、山中の樹枝、又は岩頭などに掛ケ 置くことあり                   ―「茅窓漫録」 これは罪人を地獄へ送る、いわゆる「火の車」。 それが転じて、葬式の時、にわかに大風雨となり、棺の蓋を取って、死者を奪う妖怪だと言う 紅葉狩 (もみじがり) 紅葉の盛りの九月下旬、戸隠山の山中で、 鬼退治の勅命を受けた平惟茂(これもち)は 美女に誘われて酒宴の席に引き込まれるが、 神通力によって悪鬼と変じた女を平らげる。 謡曲「紅葉狩」は、鬼女と惟茂とのやりとりに よる、優美にして変化にとんだ鬼退治の曲。 小袖の手 (こそでのて)  小袖は袖下の短い着物。  遊女が年季明けの晴れの日に 着飾りたかったのであろうか。 それもかなわず、恨みが残って 手を出させたとでもいうのだろうか。 白粉婆 (おしろいばば) 能登では大きな笠をかぶって雪の 夜に酒を買いに行く老女をいう。 諺に「師走女の化粧は山の神も恐が る」とあり、十二月は身仕舞いに暇 が無いことからこう言う。 獺 (かわうそ)  小さい狗のようで四肢は短く、毛の色は 薄青、よく魚をとる。変化するときは美童、 美女に化ける。 河童は獺の年を経たもの(「下学集」)とも。 累 (かさね) 下総の国は羽生村の百姓与右衛門の妻の「かさね」は 実名を「おつわ」という。淫乱で邪険であったため に、度々嫁(か)したものの、そのたびに離別され、 それは九度に及んだ。よって、里人は綽名をつけて 累(かさね)と呼んだ。夫の与右衛門に悋気して自ら 井戸に身を投げて死に、その霊が後妻に取り付いて 悩ませた。 世に「かさねものがたり」という書があり、おつわ は与右衛門に殺されたと書いてあるが、これは創作 狐火 (きつねび)  狐が火をともす、いわゆる狐火の 俗信は、各地に伝えられる。    江戸の王子では大晦日の夜、関 八州の狐が集まるため、無数の狐 火が舞う。年の変わり目の時間に、 怪火がもえ出す。 河童 (かっぱ)  越谷吾山「物類称呼」巻二によると、 「其かたち四、五歳ばかりのわらはのごとく、 かしらの毛赤うして、頂に凹なるさら有。水を たくはる時力はなはだつよし。性相撲を好み、 人をして水中に引入んとす。 或は恠(あやしみ)をなして婦女を姦淫す。 其わざわひを避るには、猿を飼にしかずとな ん」とある。 約束なればこそ、いまからおまえのもとへゆくが、 もしおまえが人と畜生のさかいを忘れるようなことが あったら、みよ、この懐剣が物をいいますぞ&#「人でなしの恋」  江戸川 乱歩 そのはなやかな、情欲的な顔が、時代のために いくぶん色があせて、くちびるのほかは妙に青ざめ、 手あかがついたものか、なめらかな膚がヌメヌメと 汗ばんで、それゆえに、いっそう悩ましく、なまめか しく見えるのでございます。 ・・まあ、なんということでございましょう、私の夫は 命のない、冷たい人形を恋していたのでございます。 この人形の不思議な魅力を見ましては、もう、そのほ かになぞの解きようはありません。人ぎらいな夫の性 質、蔵の中のむつごと、長持ちのふたのしまる音、姿 を見せぬ相手の女、いろいろの点を考え合わせて、 その女と申すは、実はこの人形であったと解釈するほ かはないのでございます。 笛 / 萩原朔太郎 あふげば高き松が枝に琴かけ鳴らす、 をゆびに紅をさしぐみて、 ふくめる琴をかきならす、 ああ かき鳴らすひとづま琴の音にもつれぶき、 いみじき笛は天にあり。 けふの霜夜の空に冴え冴え、 松の梢を光らして、 かなしむものの一念に、 懺悔の姿をあらはしぬ。 いみじき笛は天にあり。 「蛇性の婬」 雨月物語より 「もとの契をお忘れなされて、 この様な取柄もない人をちやほや あそばすとは、にくいと仰せられ るこちらよりもいっそ憎く、お恨 み申し上げます。」 そう言うのは、形こそ変わっても、 まさしく真女子の声であった 「サロメ」  ワイルド ああ!お前はその口に口づけさせて くれなかったね、ヨカナーン。 さあ!今こそ、その口づけを。 この歯で噛んでやる、熟れた木の実をかむように。 そうするとも、あたしはお前の口に口づけするよ、 ヨカナーン。 「桜の樹の下には」  梶井基次郎 何があんな花弁を作り、何があんな蕊をつくってゐ るのか、俺は毛根の吸い上げる水晶のやうな液が、 静かな行列を作つて、維管束の中を夢のやうにあが ってゆくのが見えるやうだ 「地獄変」  芥川龍之介 あの煙に咽んで仰向けた顔の白さ、焔を掃ってふり乱れた髪の長さ、それからまた見る間に火へと変わって行く、桜の唐衣の美しさ―何という惨たらしい景色でございましたろう。 「夜叉ヶ池」  泉 鏡花 人の生命の何う成らうと、其を私が知る事か! 「時雨」 北原 白秋 時雨は水墨画のかをりがする。 燻んだ浮世絵の裏、 金梨地の漆器の気品もする。 わたしの感傷は時雨に追はれてゆく 遠い晩景の渡り鳥であるか、 つねに朝から透明な青空をのぞみながら、 どこへ落ちてもあまりに寒い雲の明りである。 時にはちりぢりと乱れつつも、 いつのまにやら時雨の薄墨ににじんで了ふ 「桜の森の満開の下」 坂口安吾 とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。 突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から ふきよせていました。 「刺青」  谷崎潤一郎 親方、私はもう今までのような臆病な心を、さらりと 捨ててしまいました。 お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ ;源氏物語 ~葵~あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣 などもただ芥子の香にしみかへりたる、あやしさに、 御甘参(ゆするまゐり)、御衣着(ぞき)かへなどしたま ひて試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが 身ながらだにうとましう思さるるに、まして人の言ひ思 はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひと つに思し嘆くにいとど御心変りもまさりゆく
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2007-2-4 12:25:00 | 显示全部楼层
日本姓氏来历的33种属性(1)地名型 比比皆是,不解释了。 (2)氏型 与古代的"氏"关系很深的姓氏。   如:苏我、物部、藤原。 (3)物象型 与动植物、器物、建筑物等物象有关的姓氏。   如:楠木、机(桌子的意思)、辻堂、沓(鞋子的意思)。 (4)职名型 与职业、役职、官职等有关的姓氏。   如:目(守介掾目四等官的最后一等)、卫门、锻冶。 (5)名前(名字的意思)型 由名字发展而来的姓氏。   如:源内、为贞、二郎。 (6)略姓型 由原来的姓氏简略而得的姓氏。   如:宗(惟宗)、追(追田)、物(物部。你看,"物"姓至少有两种属性了)。(7)当字型 我也不很明了,似乎是原姓只有读音,汉字是后来才胡乱凑的。   如:池鲤鲋、不死原、新闻。 (8)佳字型 直接用祥瑞字眼作姓氏。   如:宝木、增满、龟龙(顺便一提,日本人看乌龟的观念与现在的中国人也不一样呀)。(9)转字型 转音、转字(类似于使用了通假字)而生的姓氏。   如:若旅わかたび(若田部わかたべ的转字、转音)、棉谷(棉屋的转字)。(10)消失姓 现在已消失的古怪姓氏。   如:释迦牟尼佛、言语同断、色魔(怎么样,日本姓氏奇怪吧?更奇怪的还在后面)。(11)信仰型 与信仰有关的姓氏。   如:调月、星、天道(上面三个消失姓似乎也是信仰型)。(12)古代型 与古代姓氏关系很深的姓氏。   如:武内、主、额田。(13)外来型 外国传入日本,或与外国关系很深的姓氏。   如:高丽、秦、邹。(14)冲绳型 与冲绳关系很深的姓氏。   如:与那原、上江洲、东风平。(15)赐姓型 由下赐而得的姓氏。   如:橘、留目、日本、丰臣。(16)合字型 由原姓中的两字相合并而生的姓氏。   如:麿(麻吕)、小柴(小此木)。(17)商业型 与商业有关的姓氏。   如:鱼屋(鱼店的意思)、酢谷(醋店的意思,"谷"是"屋"的同音转字,下同)、丝谷。(18)皇族型 与皇室、皇族、宫家等有关的姓氏。   如:有栖川、大后、闲院。(19)人名型 从一般性的人名称呼发展而来的姓氏。   如:民、奴、早乙女。(20)阿伊努型 与日本的少数民族阿伊努族有关,或从阿伊努语发展而来的姓氏。   如:小比类卷、金田一(哈哈,这个料不到吧?)、石狩。(21)公家型 与公家有关,从称号等发展而来的姓氏。   如:九条、河鳍、公卿、菊亭(嘿嘿,怎么能忘了给自己作广告)。(22)复姓型 与中国的复姓意义不同,指由两姓合并而生的姓氏。   如:长曾我部、竹田川边、疋田斋藤。(23)部民型 从古代职业部、名代部、子代部等部民发展而来的姓氏。   如:祝部、服部、忍海部。 (24)かばね型 这个比较费解释,かばね是对上古的一些姓的称呼,看到例子后阁下可能就明白了。   如:直、连、臣。(25)虾夷型 与虾夷有关的姓氏。   如:俘囚、夷、胡、夷俘、虾夷(都是原来大和朝廷侮蔑虾夷的话,不知谁会用这样的姓?现在大概消失了吧)。(26)佛教型 与佛教关系很深的姓氏。   如:大佛、释、舍利弗。(27)神道型 与神社、神道关联很深的姓氏。   如:三轮、神、福神。(28)事象型 与事件、变故、原由等相关的姓氏。   如:栗花落、月见山、一入。(29)艺名型 从雅号、艺名、笔名、别称等发展而来的姓氏。   如:幸若、锦城斋、善阿弥。 (30)敬称型 由敬称发展而来的姓氏。    如:卿、王、殿。 (31)屋号型 由屋号发展而来的姓氏。    如:泷の屋、增田屋、角谷(角屋的转姓)。(32)族名型 由种族名发展而来的姓氏。   如:隼人、土蜘蛛、熊袭。(33)未详型 成因不明的姓氏。
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2007-2-4 12:26:00 | 显示全部楼层
日本传统音乐概述古代的日本音乐外来音乐的传入远眺日本历史,综观大和政权,日本以一个独立国家的形态在世界上崭露头角,在与中国交涉、与朝鲜半岛密切接触等方面表现最为显眼。这个时期也是音乐发展的重要阶段,外来音乐如潮水涌入般很容易就从各地流传进来。最初是朝鲜的音乐舶来,中国音乐接踵而至。一曲曲美妙旋律的作了各种名称,如新罗乐、高丽乐、百济乐、唐乐。其中最有名的是测古天皇时代(7世纪)时,百济归化之际由味麻之所传的伎乐。八世纪中叶,印度婆罗门僧带来林邑乐与佛教的声明,林邑乐就是现今越南南部地区的音乐。平安时代初期,中国渤海乐传入。除了伎乐,其它不少民间的音乐至镰仓时代(1185-1333)已然失传,这是由于武家政权兴起,宫廷音乐在宫廷的表演衰落下去。像伎乐这种少数没有灭亡的传统在贵族的官邸里得到保存,经京都、奈良和大阪地区的三个乐师行会的努力,使其以宫廷雅乐形式流传下来。宫廷音乐由三种音乐作品构成:一是唐乐,属于中国唐朝音乐的风格:二是独乐,从朝鲜半岛传入;三是本土创作、与神道教的仪式有关的音乐。每种宫廷音乐的乐器组成和乐曲的形式不同。雅乐主要由管弦与打击乐器合奏,并伴以舞蹈;如果以舞蹈为主体则叫做“舞乐”。舞乐分为左方、右方两部分,唐乐、林邑乐属于左方,三韩乐、渤海乐称为右方,其间有异于乐器编成与乐曲形式,有记载的北庭乐、承和乐、胡蝶、长庆子都属左方。平安时代后期,管弦合奏规模渐渐缩小,人们越来越多的在模仿外来音乐,《平安朝の新作の歌曲》就是这样的情况下被制作出的。另外包括一小部分本土固有的古乐,如神乐、东游、风俗、催马乐等,但是已经被改编成优雅的宫廷风格。神乐指宫中祭祀用的御神乐;东游原本是东国的民俗歌,也被收纳入宫廷;风俗更不用说,在各地方以民谣的形式存在;催马乐以民谣为源流并继承发展,后又在宫廷里洗练了数年而形成。这些纯洁质朴的歌曲,附上雅乐的管弦的伴奏,与“风雅”者的朗吟交织在一起,变得更加动听。●雅乐与乐舞这一方面的资料并不缺乏,书本、互联网可上信手拈来。单从大宝元(701年)年设立雅乐寮一事,便可看出宫廷中对其之重视,这里亦不多提。●声明声明是佛教音乐的一种,奈良时代至平安初期间由印度经过中国传来。因在说唱里加入了经文的旋律,采用梵文的梵赞(ぼんさん)、汉语的汉赞(かんさん)、日语的和赞(わさん)三种不同音律融合的手法,表达出对诸佛赞叹的祈愿这个目的。因此声明可以称作是日本音乐的起源点,是人类以自身最单纯自然的嗓音与复杂的古典音乐相进行的一次亲密接触;同时它也是当时日本社会里最为流行的音乐之一。最澄、空海大师将其主流分为密教系的天台声明与真言声明两大派系。它对平曲、谣曲产生极大的影响,当你仔细聆听声明与平曲,或是声明与谣曲,不用专家的解说,就能明显感觉到其中的相似之处。因此平曲、谣曲从声明中继承许多东西,作为它们宝贵遗产的净琉璃同样强烈地受到声明间接的影响。●今样平安时代中期,原在宫廷人之间流行的催马乐、朗咏等歌曲逐渐衰落,出现了一种名叫“今样”曲子,平安末期大为流行。所谓今样,就是“当世风”的意思,其产生与声明有着密不可分的关系。它是将和赞缩短之后形成的法文歌,形式为七五言四句。最初源于平民之间,将发生的大小事物改编后传唱,因此当时产生了大量的游女(艺妓)、白拍子(女扮男装)名手。平安末期为宫廷贵族喜好,之间广为传唱。但因为进入镰仓时代,激烈的战乱使武士们通过武力斗争登上政治舞台,反映战争生活的战记物语活跃起来,而今样作为前朝的乐曲被断绝,仅仅只能在雅乐“越天乐”的歌唱中寻到一丝踪影。 中世的日本音乐●平曲天台声明的出现为盲僧琵琶的创立提供了基础,一般认为这种盲僧琵琶曲是形成于镰仓时代初的平曲的起源。琵琶这种乐器从古代雅乐里开始使用,所以又把这种琵琶称为乐琵琶。而盲僧琵琶和乐琵琶构造有少许不同。所谓盲僧,只是盲人打扮为僧人的模样,并没有真正皈依佛门,只是作为对属于寺院或神社的一般平民的称呼。那些作僧人打扮的盲人是在平家灭亡的记忆将要消失之际徒步流浪各国,伴随着琵琶的演奏将平家物语的词章演唱。词章完全是平家物语的内容,作者为信浓前司行长,因此平曲应是平家琵琶曲的简称。吉田兼好(1283-1352年)《徒然草》第226段记载的逸闻,后鸟羽院御世,以学识闻名的行长被邀请去主持讨论白乐天《新乐府》,由于他把《七德之舞》忘记了两句,人们给他起了个“五德冠者”的绰号。他感到难为情,舍弃学问遁世出家了。后在丛或法师的细心照料下,行长写完了经典之作记述平、源两大武士集团兴衰始末的《平家物语》(此类物语的特色是日文汉文交织,韵文散文并列,雅语俗语杂陈,读来音节铿锵,琅琅上口),教给名叫生佛的盲人让他讲述,而成为平曲的开端,后世争相模仿生佛特有的声调。这也只是暗示雅乐的衰退和新兴音乐的发展的一则逸闻罢了。江户时代末期,因演奏平曲的是盲人组织而受到幕府的庇护,明治时期开始衰退。如今为避免平曲的失传,也有少数的人继承着这一曲调。净瑠璃、长呗等还保留着“平家”或“平家ガカリ”的旋律,也就是模仿了平曲的调子。●田乐、猿乐能与能乐在日本中世纪文艺界,最负盛名的乐种大概非田乐与猿乐莫属,因此有时将在某种特定艺术环境中进行的田乐、猿乐统称为“中世纪能”。田乐能是以中国传来的杂技中文艺的散乐为要素,在其发展过程中施加于作为田植仪式的田舞、即为地方上的神事祭祀服务的舞蹈所形成的;何谓猿乐,简单来说,也是一种从中国入境的传统音乐,后来经过发音转变,变成猿乐(能剧的集大成者世阿弥叫他申乐,不过发音是一样的),是散乐的转音。猿乐也可指用滑稽的技艺仿效的言词,平安时代就出现滑稽的仿效,其中有描述一位煮茶人的故事《さるがふ事》。在我们所说的猿乐中,与白拍子的舞和舞曲或一些其它曲调集合,使演奏猿乐能成为一种流行,大和、近江、丹波,甚至在摄津等地都有了的喜好猿乐的人们。后来经由观阿弥(1333-1384)和世阿弥(1363-1443)父子的增删、写成理论书,这种猿乐能被作为出色的音乐剧出现于历史舞台。根据有关资料所说的整理,当时的职业文艺家演奏这种“中世纪能”的形式,在朝臣和高级武士们平日的消遣中得到了欢迎,同时也受到从镰仓时代后期至室町时代初期之间的当权者的保护。将军足利义满是一位认定猿乐能的地位使之不受动摇的关键性人物从此猿乐能进入突飞猛进发展的阶段,出现了观世、宝生、今春、金刚、喜多五种能乐。但由于仍然受到政治的冲击,近代在德川幕府的施政下,规定了幕府的式乐,把除了被家康承认的第一流的喜多流选出来,其它的四流有全都成为旧的历史,被另一种叫“能”的音乐取代了。因此人们开始把大和猿乐作为能乐直接的源流,但真正日本古代的能(才技)、猿乐能、猿乐等才是它的前身。能乐曾是日本武士阶层的式乐。直到今天它仍得到原武士阶层的支持。如果单方面谈论声乐的表面性,能乐所说唱的故事全是东西融合的乐曲,并且像前面叙述地一样,它也大量接受着声明的影响,更不用提曲舞的旋律,其实田乐能与其它任何的曲乐哪个不是很强地受到着前人所做音乐的影响呢!●谣曲日本古典歌舞剧“能”的台本,或简称谣。能是中世纪的室町时代在猿乐(类似中国唐代的散乐)的基础上经过改革、提高而创造出来的综合性舞台艺术;题材多取自文史典籍,也有一些是取材于社会现实。基于世阿弥从音乐的立场讲述能乐的词章的说法,在日本的能乐已经是和历史中所触及的那样,从仿效技艺的猿乐能,再到采用更古老的田乐能力里的一些要素,更加摄取了在当时世间流行的舞乐,可以说是“集百家于一家之所长”。能乐的精神在其主要的音词章节的深度上和演技的上都得到了人们的尊重。在以这个深奥为目标的观点方面,当时的人们想扔掉田乐能对能乐的影响,还有所谓对能乐的深奥、优雅、和蔼、典雅、美丽等的感情大意的表达。能乐的大成者是世阿弥,也是现在的观世流的祖先。因此,台本的文学性和音乐性极为重要,常常是以叙事诗和抒情诗的形式来表达剧情的发展并刻画人物的性格,所以也可以说谣曲就是剧诗。●五番立在江户时代,随着“能”被作为幕府的式乐,一日正式演出五节目的就是五番立。因为这种五番立(棋盘)式样形成的演出把原先那种粗枝大叶的节目区分开了。在那样表演的形式其中,“翁”(おきな)是作为破格待遇在最初上演的。初番目物(讲述的是翁腋下夹着垫子的一场戏。神佛物)二番目物(显出武将等在阿修罗的住处的痛苦。阿修罗物)三番目物(历史上著名的年轻的女性等登场。假发物)四番目物(发疯的女人物。含现在物等的杂类能剧)五番目物(以鬼神和天狗等为主人翁。鬼畜物)●歌舞伎“歌舞伎”(かぶき)是日本代表性的传统演剧,与“能”(のう)、“文乐”(ぶんらく,人形净琉璃)并称为日本的三大国剧,也是以音乐作为重要因素之一的综合艺术代表例子。“歌舞伎”是后世的音译字,应该是沿袭了当时的“倾く”(かたぶく)的日常用语。后来人们为这种舞蹈起了雅号“歌舞伎”:歌,代表音乐;舞,表示舞蹈;伎,则是技巧的意思。故名思义,歌舞伎舞是和传统的能的舞蹈大不相同的新风俗舞。歌舞伎舞最初起源于岛根县出云神社的女巫阿国,为劝募修复神殿的经费到各地巡回演出募款,她从中世纪后半产生于各地的风流踊中创新歌舞伎踊,来到京都表演了一种叫做“念佛舞”的艺能,广受好评。传说她身着深红色男装,其它舞者亦穿风格奇异显眼的华美服装,一边跳舞,内心一边念着短歌南无阿弥陀佛,南无阿弥陀佛,眼光挂在阿弥陀佛的佛号上,这样就有了念佛舞的说法。总称这些和歌舞伎踊变得当时在寺庙和神社中常举行酬神祭,阿国也以此名目开始表演歌舞伎舞,后来还借用“能”的舞台,又不断充实、完善,从民间传人宫廷,渐渐成为独具风格的表演艺术。而大受欢迎。宽永六年,幕府以伤风败俗为由,下令禁止了游女歌舞伎及所有的女性艺术。女歌舞伎被禁后,代之而起的是“若众歌舞伎”,这些将刘海梳起的美少年们所表演的舞蹈和狂言艺能,在女歌舞伎的全盛时期就已经存在,但直到当时才展露头角。若众歌舞伎主要都是美少年,他们以表演舞蹈和惊险的杂技为主,但也兼有男同性恋卖淫,所以承应六年,以和女歌舞伎相同的理由遭禁止。后来以接受了剪掉若众的象征刘海,以及不跳煽情舞蹈而以对白代替等两项条件,于次年才被允许继续上演,此后则被称为“野郎歌舞伎”。元禄时代(1688-1704)歌舞伎则转以写实性为中心。此时,在都市商人阶层经济成长及财富累积的背景下,各式庶民文化蓬勃发展。在江户,市川团十郎所创始的荒事,和以武士阶层为中心所形成的新兴都市粗野风气相符合,而广受欢迎。在京都,以板田藤十郎为代表,确立了和事的演技模式;此外,团十郎自编自演的狂言剧本,描绘当时的社会百态,以殉情、犯罪等作为题材的作品,都是此时期所产生的。此外,日本戏曲的开花期可说是在近松门左卫门的时代。在他的作品中,歌舞伎的脚本约有30编,所以歌舞伎可说是因为近松门左卫门*而更加戏曲化。(*近松门左卫门:本名杉森信盛,又名作左卫门。通称平马,别号平安堂巢林子,不移散人。)渡过元禄盛时后,从享保至宝历年间(1716-1764)是歌舞伎的沉滞期。受到幕府打压只是原因之一,而近松门左卫门(1653-1724)致力于净琉璃的创作后,歌舞伎界没有再出现名作者,以及元禄时期活跃的名优去世后后继无人,也都是歌舞伎进入沉滞期的原因。最后人形净琉璃在宝历末年逐渐衰微。歌舞伎在剧曲构成及演技演出上都受到人形净琉璃的影响,而再度活跃起来。特别是这个时期的舞台结构更加发达,升降及旋转舞台等设备使演出更富变化。文化文政时期,在原本文化水平较高的的上方一带,歌舞伎相当兴盛,而到了江户后期,江户的文化也发达了起来,很多歌舞伎剧团便由上方移往江户。代表文化文政期的鹤屋南北(着有《东海道四谷怪谈》),他不描写在封建道德和武士社会伦理束缚下生活的人们的悲哀与空虚,而充分描写出因本能欲望而自由奔放地活着的人类的韧性与坚强。幕府末期江户歌舞伎的集大成者是川竹默阿弥,在他的作品中常以英雄化的市井恶棍为主角,而他也自许为白浪作者。明治20年代起,对市川团十郎的戏剧,抱持批判态度的坪内逍遥,除介绍莎士比亚的戏剧外,还编写历史剧与舞蹈剧剧本,给予歌舞伎剧刺激。明治以后的新==采取文明开化、欧化改良的政策,江户歌舞伎也不得不为了迎合新时代而改革,这就是歌舞伎的近代化。当时,以俳优而言,演技和演出的集大成者有市川团十郎和尾上菊五郎。他们采用高尚趣味及写实合理的表演技术,创造出适合新时代的演剧,此即所谓的“演剧改良运动”。 近世的日本音乐●净瑠璃的起源在日本近代的音乐中最被关注的是净琉璃。它本是说唱艺术发展起来的木偶戏,净瑠璃原指曲调,后来又指它的脚本,也可做剧种的名称。首先,从净琉璃这个佛教带有的名字的起源叙述,这个名称中含有着净琉璃发生纠绕的事情,从有关发生的种种传说中,挑选了几个值得信赖的个体试着开始溯寻它的起源。一般的说法是发生于室町时代末期的故事《御伽草子》,另外那个为人们熟知的“净琉璃十二段草子”《净琉璃物语》,也是这个净琉璃的最初的说唱的故事。其实根据历史考证,净琉璃是近松门左卫门发明创作的说唱曲艺。那么就先不谈净琉璃的名称有着怎生来历,说说《净琉璃物语》的主要内容吧。大致是成为三河国矢矧村落的里长海道一的游记,对三河国的药师十二神祈愿出生了一位叫净琉璃的美女,接着向陆奥行走的途中遇到了金卖吉次的仆人牛若丸,里长海道一看到这个人富裕的家境条件,于是就以歌颂他品德的和歌帮助收养那个刚出生的净琉璃,当天夜晚就交换了盟约,次日又开始向陆奥出发。这就是从净琉璃出生的开始,或者是被几个灵验的神佛叙说而流传下的,也许只是艺妓为了吸引人们的兴趣,编制出错误的世界观念,也许只是神社佛阁里典藏的那些根据寄食的徒劳之辈乱弹的疯言所作成的中世纪末期的故事吧!因此净琉璃是日本中世纪的末尾音乐史上发生的最有影响性的事件之一,在那个时代开始似乎就像是打开扇子那么容易一样被谈开了。但随着时间的推移后来还是被一种称为“三味线”日本三弦的伴奏替换了。●木偶净瑠璃在元禄时期前后,大阪与京都一带的木偶净琉璃剧,在唱腔方面及操纵木偶的技巧方面都出现了长足的进步。大阪的木偶剧演唱名艺人井上播磨掾(1633-1685),为木偶净琉璃剧的开山之祖。继之在京都出现了名演唱家宇治加贺掾(1635-1711),随后又在大阪出现了竹本义大夫,亦称竹本筑后掾(1651-1714),使净琉璃在唱腔上大为创新。又因竹本义大夫和近松门左卫门的合作,促成了琉璃戏剧艺术的提高,使之成为表现复杂情节、细致刻副人物性格的成熟的戏剧。此外,尚有纪海音作为剧作者在丰竹座剧场活跃(1663-1742)、文耕堂(生卒年不明)、并不木宗辅(1695-1751)、竹田出云(1691-1756)、近松半二(1752-1783)、平贺源内(1728-1779)等人。近松去世的享保(1716-1736)以后,进入了由几个作者共同制作一部作品的合作时代。从延享至宝历元年(1744-1751)的这段时期,凌驾于歌舞伎声望之上的人形净琉璃迎来了它的全盛时期。有竹田出云、并木宗辅和三好松洛作为作者而活跃,创作出《菅原传授手习鉴》《义经千本樱》《假名手本忠臣藏》等三名作。其中竹田出云写的武家历史剧《义经干株樱》、《假我手本忠臣藏》等,后被移植成歌舞伎节目,直20世纪仍在上演。这些都是带有许多虚构成分的历史剧,反映出武士阶级的封建思想意识。这以后又由近松半二和菅专助作为作者而活跃,创作出《奥州安达原》《妹背山妇女庭训》《伊贺越道中双六》《摄州合邦》等名作。现在上演的大多数作品都是安永期(1752-1780)之前初演的作品。可以说18世纪上半期,以京都大阪一带为发祥地的木偶净琉璃十分兴旺,压倒了歌舞伎,但到了18世纪下半期,这种形势逐渐反转过来。宝历(1751-1764)至安永期(1752-1780)的阶段渐渐地开始走下坡路了,演出的大本营竹本座剧场和丰竹座剧场也开始倒退,宽政期(1789-1801)时完全衰退。以后变成宫地剧(寺庙院内演出的戏剧)的时代,由船场(大阪的商人街)的御灵社、座摩社、稻荷社等在院内上演。新作品的上演变得极少,旧作品中的名作开始作为古典来上演。由于歌舞伎汲取了木偶净琉璃的表演、音曲、脚本各方面的长处,不断丰富自身,加之京都、大阪一带的歌舞伎艺人和剧作者大量转移到武家政权的首府江户,使得江哀悼的歌舞伎中又出现了一些名艺人,如中村富十郎、濑川菊之丞等,从而更促进了歌舞伎的成熟。19世纪后半期,木偶净琉璃日渐衰微,只在京都有一个文乐座剧团,作为古典剧种的继承者,被保存下来。●净琉璃的发展和日本三味弦的登场三味弦的祖先即是中国的三弦。三弦于1560年经冲绳传到了日本。通过日本艺人的改造,终于三弦变成了三味弦。三味弦自诞生伊始就一直流行民间,随着贵族社会的崩溃和庶民文化的勃兴,三味当仁不让地与琴并称为“日本乐器之王”。三弦琴用于诸多类型的日本音乐,到现在它已经成为了日本舞蹈、戏曲中代表性的伴奏乐器。多达三十几人的连奏合唱的“长歌”更显示出三味弦在日本人生活中的不凡地位。同时,三弦琴使日本传统音乐的多样性得到充分的体现。最初日本三弦改造于长禄年间(1560年代)从琉球舶来的中国三弦乐。而在日本最起始用鼓槌弹奏这个乐器的是弹琵琶的盲人。后来他们发现这种乐器不论哪种旋律和节奏都用得到,就很快地受到乐师们的关注,成为了日本音乐的大力发展的动力。于是三味线开始运用人偶戏(人偶净琉璃)傀儡娃娃之中,成为当时乐师们维持生计的重要工具。16世纪末的文禄年间(1592-1596)西宫的夷舁(えびすかき)提出新方案,建议集体把日本三弦做成演出人偶净琉璃时的伴奏乐器,在享禄年间(1528-1532)时完成的净琉璃节时被采用了。不管怎样,使得以傀儡娃娃的故事木偶戏和日本三弦相结合,促使净琉璃实现了惊人的发展。进入江户时代,作为新的说唱的故事受到欢迎的净琉璃,在艺人杉山丹后掾和萨摩净云这二个人物的精彩演奏下,很快从京都传播到了江户。这二个人收了许多的门生,后来也都成为了演出净琉璃的上等艺人,可以说人才辈出。他们相继出名并成立了自己的新流派。在这些名家中,如果推举与现行的净琉璃关系很深的流派,就是从杉山丹后门下的江户半太夫(半太夫节),十寸见河东(河东节),同时,也有从萨摩净云门下的萨摩外记上太夫(外记节),大萨摩主膳太夫(大萨摩节)、虎屋永闲(永闲节)、都太夫一中(一中节)、竹本筑后掾(义太夫节)等流传下来的。其中,半上太夫节在河东节里留下了面貌,外边记节也河东节中在留下了其美妙的身姿。可以说大萨摩节后被三弦曲吸收,仅仅只存在于长闲节等地方歌谣中。同时,一中节作为现行的净琉璃直到今天仍然传达着美丽的曲调。从一中节以后,添加了三味弦的净琉璃与江户的歌舞伎一起在江户的妓馆区遍地开花了。●义太夫节配合着“太夫”的道白和三味线(三弦)的音乐,用木偶演出的人形净琉璃,是曾经以京都、大阪为中心诞生、发展起来的木偶剧。它的上演历史是从17世纪初开始的,到了17世纪后半,优秀技能的太夫辈出不穷。活跃在大阪的有井上播磨掾、伊藤出羽掾,活跃在京都的有宇治加贺掾、山本角太夫等。加贺掾的净琉璃力图创造出在文学艺术上也属优秀的说唱故事。正好那时竹本义太夫在大阪的道顿堀登场,贞享2年(1685年)建团公演,上演《出世景清》,得到好评,这以后说起净琉璃,义太夫最受欢迎。现在在关西如果说起净琉璃,也就是意味着“义太夫节”。作为在这个最有代表性的说唱的故事的义太夫节,一直为义太夫创作作品的是近松门左卫门。近松创作了《曾根崎心中》《心中天网岛》《冥途的飞脚》《倾城反魂香》《国性爷合战》等名作。从近松门左卫门开始,人们丢掉到以前的旧格式,文学以音乐性的格式表现也成为了新派别,受到从京都到大阪等地方的观众的欢迎,达到了压倒性的支持。这个时期,道顿堀西的竹本座剧场和道顿堀东的丰竹座剧场互相竞争,呈现出一派活跃景象。为此,称义太夫以前的净琉璃古净琉璃与义太夫节以后的净琉璃逐渐被区别开来。并且,义太夫节的地位也提高了,作为流派名的义太夫节开始有了固定的演出时间和场地,不过它仍然象古净琉璃时代一样,义太夫节上的各人独立的许多流派现在已经丢失了。义太夫节是在说唱故事这样的净琉璃中有代表性意义,根据后人的叙述,它与丰后系的净琉璃“富本”“清元小调”等比较,唱的要素很少,谈的部分则非常多。不过,一般认为义太夫节是根据日本三弦演奏方法的发达初期的时候才越发变得被音乐化的。●丰后系浄瑠璃大阪作为义太夫节占有的地盘,的的确确是符合了大阪人爱好的净琉璃的时候。然而在京都一切都要符合首都生活的高雅旨趣,这样另一种适合京都人民“口味”的一中节被创始了。以后一中节离开它的“故乡”京都被移植到了江户,从这里开始,由第一代一中节的门人宫古路丰后掾在享保十九年(1734)下到江户,歌舞伎的演出受到了江户中级阶层人民的欢迎。那个气势,直到作为江户净琉璃为坚实地盘的河东节被开创后也没有完全消失。与任何受欢迎的东西一样,一中节也有其反作用,在元文二年(1737)时地方奉行所的处理政务时,以风俗紊乱做为理由,宣告全面禁止一中节,丰后掾抱失意的心情返回京都,不久就去世了。可是,丰后掾作为在运用常盘津文字方面的大夫在音乐方面做出了巨大贡献,在数年后的江户人们创始了常盘津节,同门的富士松萨摩掾也开拓了富士松节。这个时候的常盘津节作为社会问题也被禁止,而与其有密切关联的歌舞伎戏剧逐渐坚固了自己的地位。从乐曲的倾向上看来常盘津节搀混了硬和软的旨趣,当政者也有可能是把它当作丰后掾的一中节一样排斥了吧。他们简单的认为富士松节是从常盘津节一门里分出的,就如同人们都知道鹤贺若狭掾是作为鹤贺新内曲改编成的新内曲节一样。如果比较丰后系净琉璃与义太夫节的特色,它的独特之处是与歌舞伎舞蹈连结了,唱的东西也可以说是近音乐。作为在江户固定下来的歌舞伎的戏剧,虽然在音乐发展上江户三弦曲曲调和演奏者的心情差异是有的,但内容和机能的倾向性也走向了相似的地方……●常盘津、富本、清元宫古路丰后掾的同门的富士松萨摩掾,从他一门驱出的鹤贺新内曲来到世间,作为一个新流派的内曲节被大家知道。另外作为第一代熟练运用常盘津文字的上等艺人高足富本丰前掾又立起另外一个新的流派被称作富本节。在二代富本丰前上等艺人的手下工作的二代富本侍神公主上等艺人,这个时候也立起一个流派,并在文化十一年(1814)时延袭了清元延寿上等艺人,扩大和传播了清元节。这样丰后的系净琉璃尤其是常盘津、富本、清元这三种净琉璃有着血融于水的最为深远的关系。因此,后人经常把这三派并在一起称作。可是,现代在三派中的富本节已经完全被人们遗忘了,据说有人打算复兴这个富本节的计划,恐怕再也没有从前全盛的时代的富本再现的事了吧。也许富本节走向了灭亡的命运,正是在常盘津和清元小调中间的曲风,成为了被大众抛弃的结果吧。●古曲以上所被列举的丰后系的净琉璃仅仅是一大部分中的一小部分,宫薗节、繁太夫节是一直留存到今天的。宫薗节是宫古路丰后掾的门人宫古路薗八が立的流派,发祥地为中一节昌盛的京都。不过,随着文化、文政衰弱的时候,被作为江户时期不完整的十支古曲保存了下来。现代人们把宫薗节与一中节、河东节、荻江节并列称为古曲。十曲中的代表曲子是「鸟辺山」,这支古雅美丽的曲调直到现在也留存着魅惑人心的东西,同时,繁太夫节也只是作为繁上等艺人创作的一些曲调残留在地方歌谣中。●三弦曲如果按照正确的说法,三弦曲应该叫作江户三弦曲。因为是为了区别地方歌谣中所说的有长歌(三弦曲)种类的曲调。江户三弦曲是在日本传统音乐中最为被人们所熟知的音乐,也许是因为它与现代音乐比较亲近吧。江户三弦曲,根本的特点是在江户歌舞伎中作为舞蹈的伴奏产生的戏剧歌。因此,初期的三弦曲歌不过是本位的小曲,但随着愿意学习这个曲调的人逐渐增加,它逐渐在剧场音乐里丢失了。从江户时代的末期左右宴席三弦曲(演奏会用三弦曲)逐渐开始被制作出来,并作为一种独立的传统音乐在日本音乐史上的提高了其自身的地位。十八世纪的中期宝历时代(1751-1764),作为一名作曲家,在歌曲方面有很高名声的富士田吉次为了恢复一中节,在其中就加入了江户三弦曲,使净琉璃的歌声变得更加动听,同时,他在文政九年(1826)获得了净琉璃的大萨摩节的掌门人的权利。这样,逐渐使三弦曲成为充实音乐的内容的重要因素之一。●端呗、うた泽、小呗与三弦曲一起让人联想的话,最能预先接触到的是日本人所说的端呗、うた泽、小呗。不论是在江户时代,还是现今的流行歌曲,这样的小曲被许多人传唱着。其中也有被带入京都的地方民谣,这样也制作了大量残缺零碎的歌与小曲,如“纪伊の国”“さつまさ”“夕暮れ”“びんほつ”等,这样小曲从京都一直传到了江户,并且进入了人们的日常生活中。不过,今天我们所说的小曲已经不在是江户小曲那么简单的事了。后来,这样的江户小呗被它似的爱好者笹丸收集整理,直到江户末期的安政年间为止,才确立了江户小呗作为艺术性的歌曲在乐坛上的地位,并整理出了“うた泽”。“うた泽”不久又分成了二派,寅右卫门派歌泽与芝金派歌泽被一直保留到了今天。另一方面,从幕府的末期到明治年间,“うた泽”发生一前一后产生的江户小曲,很快地被作曲家插入了许多的清元小曲,净琉璃改变了平常的风格,已经被优美的曲调所修饰装点起来。这样端呗、うた泽、小呗仅仅被称小曲,变得普通流行是在明治中期以后。从那时开始,喜欢唱小曲人口逐渐增加,今天仍然处于太甚的盛况。以上叙述了,端呗、うた泽、小呗各自的特色,不过区别他们还是比较困难的,端呗的特别之出在于它有坦率倾向性和人物性格较鲜明;うた泽的拍子比较缓慢,带有庄重的意义;小呗的行家好羞涩,也不使用鼓槌,有点类似于日本三弦的演奏特征。●尺八与筝曲能够代表日本近代音乐的是净琉璃,不过,我们更想预先触及一些与净琉璃一起发展的器乐,如近代尺八和筝曲。据史记载尺八这种乐器,是南北朝末年至唐初(公元581-618年)相当于日本的奈良时代作为演奏唐代的雅乐的乐器而由中国传去的,至今日本正仓院(专门收集民间乐器的博物馆)还保存有唐制“尺八”多种。最早传入日本的尺八仅用于宫廷雅乐,称为“古代尺八”,也常作为达官贵人的玩物,故也叫“雅乐尺八”。据传,日本圣德太子特别喜爱尺八,他当时所用的中国尺八,如今还珍藏在奈良的法隆寺中。而目前在日本流行的五孔“尺八”,则是镰仓时代(南宋诏熙二年至元朝至顺元年)由日本普化宗的禅宗和尚觉心,来中国求学时带回日本的。传说近代尺八的祖先是江户时代初期的虚无僧。不过,虚无僧被认为是禅宗的一个普化宗门的流派,所以这种尺八又被认为是这个宗派的法器,于是“普化尺八”便禁止俗家演奏。也有另一种说法,近代尺八只是作为虚无僧的前身的粗草僧所持的叫“一节切尺八”的五孔的竹笛。德川幕府时期,很多武士成了浪人。他们也用普化尺八,由于势力大,虚无僧对他们也无可奈何。这些浪人便将普化尺八兼作防身武器,有的便在尺八的末端包上铁箍;为了增强尺八的耐抗度,他们便选用竹子近根部分制作,渐渐地这便成了尺八的选材标准;如今日本尺八的选材标准便规定为竹子近根部的七节五孔了。这些武士所受的教育比较高,他们对尺八演奏技艺的提高也有很大贡献。例如黑泽琴古(1710-1771),他原是富罔的黑田藩士,后来成了浪人。他周游各地,搜集古曲,加上自己的创作而建立了“琴古流”。明治四年(1871年)废除普化宗,虚无僧不复存在,普化尺八便流向民间。日本现在使用的尺八就是从“普化尺八”演变而来的,不限长短,一般多为3节、5孔(前4后1)、不设膜孔。它是日本==要的吹奏乐器,既能吹奏古典乐曲,也能演奏现代乐曲;还经常与筝和三味线一起合奏(我们把筝、三弦、尺八的三重奏合奏叫作“または単に三曲”),现代人们利用尺八甚至还能与西洋管弦乐队、电子风琴等合作。日本在奈良时代将古筝传入国内,最初使用于管弦乐合奏。古筝是最早用于雅乐的“管弦”部分,而后作为地歌等说唱音乐的伴奏乐器之一,及用于歌舞伎中的杂子(后被淘汰)。安土桃山时代,顺贤以北九州岛岛的筝曲为基础,重新创作十首组歌,成为日本近代筝曲的基础,被称为筑紫流。顺贤弟子法水之门下八桥检校,以筑紫流筝曲为本,开创了”俗筝”的筝乐。元禄时代,八桥高徒北岛检校的弟子生田检校,将筝引入地歌的伴奏部分,使它与三味线紧密结合,突出了器乐独立的部分,创立了生田流,一直到了平安朝时期,才出现了独奏以及伴奏的筝曲。到了十八世纪末,山田检校(1655-1715年)将当时盛行的净琉璃三味线曲的一中节、河东节以及富本节加入,称为山田流。用圆头义指弹奏的山田流有别于用方头义指弹奏的生田流,在江户时代宽文、延宝(16661-1681年)左右、明治时代,京都与大阪一带几乎是生田流的天下;东京则为山田流的天下,二流对立。明治维新时代后,进入西洋音乐传入时期,作曲家运用了西洋音乐的写作方式及曲式创造了一系列的新作品,最着名的就是宫成道雄(1894-1956)的《春之海》,另外他还创制了17弦筝及80弦筝,在日本历史上有着不可磨灭的贡献。至19世纪初,市浦检校在大阪创立了替手式筝曲,使原先筝在地歌只是同度或八度奏三味线旋律,逐步改成按支声复调的原则开始摆脱依附于三味线的地位。大正以后,因生田流传入东京,加上西洋音乐的介入,使得二流逐渐融合,而成为新式的筝乐。到了19世纪中期,光崎检校力求筝曲完全摆脱地歌,成为完全独立的音乐。另外与三味线及加入尺八或胡弓形成三件乐器演奏的乐曲称为“三曲”。在日本由中国筝演变的类似乐器有:和琴、乐筝、俗筝、须磨琴、八云琴、摇琴、洒琴、初濑琴、大正琴等。现在多使用尺八合奏,形成音乐线条及音色对比上的变化。·日本传统音乐的音韵表现· 三弦琴使用琴拨弹拨三根琴弦进行乐奏,它用于歌舞伎、文乐以及其它各种演艺。琴长约100公分。多少世纪以来,日本的传统乐器用独特的旋律表现着日本风土人情以及日本人心灵世界。从有着千年历史的管乐器,到18世纪传来日本的弦乐器,它们伴着日本传统演艺的传承而发展成为日本独特的音韵表现形式。不熟悉日本的传统音乐的人也许会觉得所有身着和服的演奏者用三弦琴或箫等乐器奏出的每首乐曲都大同小异。实际上,日本的传统音乐分类很细,有50个,也有人说有80个不同类型。其中纯粹由乐器演奏的种类只是极小部分,而绝大多数都是歌唱与乐奏的组合。并且,歌唱大部分都是单旋律(独唱或齐唱),而伴奏大部分都只有一种乐器。日本传统音乐根据歌唱的发声法、乐器以及它们的音色是否相同为基准而分门别类。例如「义太夫曲」、「常盘津曲」、「三弦曲」(即长歌)等,它们都是歌唱与三弦琴伴奏的组合,而如果在唱声或乐器两方面,即使只有一方面音色不同,则就被认为是不同类型的音乐。也就是说,每个类型都有其规定的唱声和乐器的音色。不过,无论是唱声还是乐器,其音色的差异有很多是非常微妙的,只有专家才能听出它们之间的区别。但日本的传统音乐却是非常注重这些音色的微妙差异,并非常小心地不使这些音色混同起来或是融合在一起,可以说,这也是日本传统音乐分类甚细的原因之一。日本的乐器形态及其演奏也充分反映出日本传统音乐注重音色的微妙差异。与世界其它国家一样,日本的乐器也可以大致分为打击乐器、吹奏乐器和弹奏乐器三类。小鼓是日本典型的打击乐器之一。在日本,多数的鼓是用两根鼓槌捶击鼓皮进行演奏的,但是,小鼓是用手指捶击鼓皮,为了确保微妙的音色,演奏者需要在演奏中根据鼓声来对鼓皮系带的绷紧度进行调节,或是朝鼓皮上哈气以保持鼓皮的潮湿度。竹笛是吹奏乐器的一种。歌舞伎中的歌唱伴奏根据不同的音域分别使用12种竹笛。即使是在各种地方性的节庆演出中,人们也要使用两三种不同的竹笛。总之,日本的传统音乐通过各种细小周密的设计来表现乐曲所需的各种音色。传统乐器中最具代表性的,想来就是作为弦弹奏乐器之一的三弦琴了。三弦琴用于诸多类型的日本音乐,同时,三弦琴使日本传统音乐的多样性得到充分的体现。·关于日本雅乐·01胡饮酒破02回盏乐03鸟急04陪胪05平调调子06双调调子07越天乐筚篥:古代管乐器,用竹做管,用芦苇做嘴,汉代从西域传入。关于日本的古代音乐,没有多少考证.在最古老的文献《古事记》中,关于古代音乐的记述,大多与传说有关.从古代遗迹的发掘中,也几乎没有得到能证实有关当时情况的资料,因此,难于想象几千年前的古代音乐的状况,但根据记载,神乐可能是最古老的音乐. 《古事记》中所记的《天之岩屋》的神话,的确是与音乐有关的故事.   天照大神,由于素戋鸣尊的恶作剧,一气之下藏身到天之岩屋中,于是,世上突然成为一片黑暗.众神相聚,商量出对策,由于钿女命在岩屋前跳舞,众神伴唱,开始了热闹的神乐.天照大神对陌生的声音感到奇怪,稍稍推开了岩屋的石门向外观看,这时,天手力男命趁机将天大神拉出岩屋.这时,在神武天皇元年,举行加美真手命的安魂祭典时,使猿女君演出神乐,从此便成为惯例以至于今.自此以后,在宫廷中及神宫、神社的仪式和祭典中,开始使用神乐.因此神乐本应该按原始的形式流传下来,但是,因为从最初就没有正确的记谱法,以致在长时期的历史演变中,有失传者也有变形者,各地方和各神社的神乐,在内容上便出现了多少有所不同的情况.一般说来,神乐由人长,神乐人及歌人组成.在日本流传的古乐之一是雅乐.这是从中国和朝鲜传入的,其中以三韩乐传入最早,大约是在一千五百年前.日本的雅乐本来是输入的外来音乐,但中国的雅乐早已绝迹,朝鲜的雅乐经过长久年代也已变形,与此相反,唯独日本在宫廷及神宫中,保存下了当时整理成为日本式的雅乐,而且原封不动地保留了昔, 是很有以的.雅乐虽然饮食声乐,但以器乐为主.由于乐是和宫廷有关的音乐,因此不许在民间演奏.其传授方式也以一子相传为原则,并有严格的规定,即使是亲生子嗣,也必须获得正式的传授凭证,并在证人面前立下誓约书方能继承,因此其曲目也是秘传的.雅乐的“雅”实际上代表了整个日本邦乐的精神境界,这在一定的意义上十分类似日本茶道, 日本茶道中所追求的精神境界归纳起来有“和、敬、清、寂”四个范畴。日本邦乐同样追求这种感官的美与精神的美相融合的境界。“和”指“调和、平和”等,即与自然保持和谐以及人与人之间的谐和关系,这也正是自称为“大和民族”的日本民族的凝聚力之所在。所以其音乐表现出平和、中庸、自然的特点。音乐不重对立的矛盾冲突,很少戏剧冲突。 “敬”就是“礼”,这是受到了中国儒家“礼乐思想”和佛教文化的深刻影响的结果,他们注重个人的精神修养,日本音乐中规矩的表演,一板一眼的程式化套路正是“敬”的表象,具有一种强烈的伦理主义和神秘主义的色彩。“清”则是“清洁”,指“心的清洁”,纯净的音乐可以洗涤、净化人的心灵。所以其音乐中音阶结构简洁,多为5声音阶,旋律质朴、少装饰,多使用单一的音色,非和声性的音乐。“寂”意“寂静”,它包含着清寂、暗淡、和简朴等涵义,与禅宗文化有着密切的联系。所以日本音乐总给人以“静”的感觉,以“静心”来“净心”。音乐速度大多比较慢,散板节奏多,即使是有律动的节奏,也比较简朴。
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2007-2-4 12:28:00 | 显示全部楼层
日本战国美食转自信长の野望Online中文官方网==================饭团(おむすび)相信很多人小时候都听过桃太郎的故事,这个在日本的传统文化中占有浓墨重彩一笔的人物,最后打败怪兽依靠的居然只是几个小小的饭团,这无疑说明了饭团在日本文化中所占有的分量。传统的日本饭团是用半碗饭团成三角状,饭团中裹上一颗醃制的酸梅,外面用一片干海苔包裹,既方便携带,又不失营养,所以至今为止,它仍是深受日本人欢迎的干粮之一。日本大米和中国大米最大的不同就在于日本大米有着更大的粘性。因此做饭团就有很大的讲究。用力用大的话,饭粒会全粘在手上,而不用力的话,饭团就会散掉。因此,日本很多主妇在做饭团的时候会使用“粘手水”,不过水的分量把握也要恰到好处,不然饭团就会变稀饭了。日本人很喜欢宣传自己的大米,虽然在这个小小的岛国,耕地面积极为有限,但正因为如此,日本人的大米全部是精耕细作出来的。每年在日本的大米产区都会举行有意思的包饭团比赛,据说有能干的主妇能够在三分钟内包出二十几个漂亮的饭团,这叫人不得不佩服万分。    另外,日本传统的三角饭团有おむすび(御結び)和おにぎり(御握り)两种叫法,有爱好者考证,似乎是由于有着地域差别而发展出来的同一物品的不同叫法,关西地区比较倾向于叫“御握り”,而关东地区则会倾向于叫“御結び”,此说法从光荣公司坐落于日本的关东地区(横浜)这一点来看颇有几分道理。感兴趣的朋友可以到http://sasapanda.net/archives/200504/14_0220.cgi去看一看。================日本饭团怎么做饭团串 材料: 米饭240公克,蛋黄末10公克,洋火腿末10公克,熟白芝麻3公克,熟黑芝麻10数粒,肉松5公克,海苔末2公克,鲑香松2公克,海苔香松2公克,竹签数支 做法: 1.饭分成8份,每份30公克,搓成圆形。 2.分别在饭团外面沾上蛋黄末、洋火腿末白芝麻或白芝麻中又拌入少许黑芝麻的芝麻、肉松、海苔末、鲑香松、海苔香松。 传统饭团 材料: 米饭400公克,油条10公克,卤蛋半个,酸菜15公克,箩卜干10公克,肉松10公克,熟白芝麻2公克,耐热塑胶袋2个 做法: 1.耐热塑胶袋平放桌面上,放上200公克饭,铺成长方形,再放上炒熟的酸菜、卤蛋(切对半才放上)再加上一段回锅过的老油条,由两侧边向中间卷包起来即成饭团。 2.另一半的饭可包裹炒香的萝卜干、肉松、白芝麻及老油条,成另一种口味的饭团。 3.以竹签串起即成。 日式饭团的做法(摘自时尚健康) 基本制作方法: 材料——大米1000克,水1000克,糖300克,醋精60克,盐20克,味精10克 制作方法——国内加水煮沸,加入糖、盐、味精,凉后放入醋精,即成糖醋水。再将大米洗净,浸泡两小时后,滤去水分,放入沸水锅内煮,待水烧干时即用文火焖熟,然后倒入盆中。加入糖醋水搅匀,盖上湿纱布备用。 三文鱼饭团: 材料——三文鱼200克,紫菜1张,海带50克。饭团米1000克。 制作方法——将紫菜和海带煮熟,与米饭混合在一起。三文鱼肉做馅,再用混合好的米包成饭团。
回复

使用道具 举报

发表于 2007-2-4 13:24:00 | 显示全部楼层
日本的人口与民族按照日本政府的统计,1998年,日本共有人口约126486000人,居世界第8位,是世界上10个人口超过1亿的国家之一。人口密度每平方公里平均就有339.3人(1998年),是个人口密度较大的国家。 (1)人口地区分布上的特点 a)各个都道府县之间的人口密度差别很大。 如据日本政府1995年举行的国情调查,北海道的人口密度仅为每平方公里73人,而东京都的人口密度则高达每平方公里5384人。 b)人口的城市化程度较高。 自明治维新以来,日本的城市人口几乎一直呈增加趋势。到高速经济增长完成后的1975年,日本的城市人口已达8496.7万人,在总人口中占75.9%;农村人口即町村所属人口为2697.2万人,约占24.1%。至1995年,城市人口更达9800.7万人,在总人口中占78.05%;而农村人口只占21.95%。 c)半数人口集中在三大城市圈 根据日本政府1985年进行的国情调查,在全国1.21亿人口当中,东京及其周边县即所谓“东京圈”的人口为3027 万,占总人口的25%; 大阪圈为1653万,占全国的13.7%;名古屋圈为1381万,占11.4%,三者相加,已经超过了总人口的半数。90年代,防止“东京一极集中” 成了媒体热烈议论的话题。 (2)年龄结构--老龄化、少子化 近年来,日本人口的年龄结构主要有两个特点,即老龄化和少子化 。 日本已经是世界上人均寿命最长的国家。到2001年,日本男性的人均寿命已经达到78.07岁,女性更达到了84.93岁,均在世界上名列前茅。平均寿命的延长意味着死亡率的降低。人口死亡率降低必然会进一步促使人口老龄化。 目前,日本与世界上多数国家一样,将65岁以上人口在总人口中所占比率即老龄人口系数超过7%作为进入老龄化社会的标准。日本是从1970年开始进入老龄化社会的。那一年,日本65岁以上人口达到了739万人,老龄人口系数为7.1%。1998年更达16.4%。日本的人口老龄化速度也在世界上名列前茅。 出生率的下降是促使人口老龄化的另一个重要因素。在日本战后第一次生育高峰时的1947年,日本的人口出生率曾达3.43%,但1990年后降至1.0%以下。出生率的下降不仅促进了老龄化的进展,还直接导致了另一个人口现象--“少子化”的出现。   所谓“少子化”,指的是由于出生率下降造成的儿童数量减少的现象。用来表示“少子化”的另一个常用指标是总合出生率,它指的是一个妇女一生所生育的孩子数量。这一指标近年来也明显下降,1996年为1.43,1998年又下降到1.38,这说明日本的年轻夫妇已经不愿意多要孩子甚至根本不要孩子。照此趋势发展下去,到2010年日本人口总数将开始转为负增长,到2100年将降到6736.6万人,即仅相当于1998年人口的一半略多一点。对此,日本朝野上下颇感忧虑。 而日本人口约一亿二千六百万,其中男性约六千二百万,女性六千四百万。而日本男性平均寿命约七十九岁,女性约八十三岁,是世界最长寿的国家。除了少数阿伊努族人外,日本居民大多都是大和民族,亦有部份是外侨,其中朝侨最多,约六十万人。而华侨仅五六万人,大多居住在横滨,神户两地。日本民族的起源有许多不明之处。因为很多日本人的婴孩,在臀部有被称为蒙古斑的青斑,因此一般认定日本人是属於蒙古人种。而日本列岛中,从一万年以前的旧石器时代开始就有人类居住,也发现了当时所遗留下的石器和人骨。过去认为这些原居民,是不同於现在的日本人,後来是因为现在的日本人祖先迁入後,驱逐了原居民,但是,根据最近的趼究认为日本人的祖先,不仅是旧石器时代起的居往者,也包含了从中国、朝鲜、东南亚等地来的许多人种。他们移往日本,传入其文化,逐渐地混血,而成今日的日本人。 日本的少数民族 大多数人认为,日本是个单一民族国家,其实,在日本北海道北部沿海就生活着一个少数民族---阿伊努族。阿伊努族只有2.5万人。由于日本政府长期实行同化政策,现在的阿伊努族人和大和族人已经没有太大的区别。1997年,日本颁布《阿伊努文化振兴法》,首次从法律上正式承认阿伊努族的存在,并提出了保存其文化和传统的措施。   差点消失的民族   阿伊努族是个古老的民族,一般认为他们是从亚洲大陆迁来的蒙古人种的一个分支。公元12世纪前后,他们形成了自己的语言和文化。那时,阿伊努族人主要分布在日本北海道北部及周围的一些岛屿,靠渔猎和采集为生,过着极为原始的生活。   阿伊努族人的服装,过去主要是用兽皮和鱼皮制作,现在则主要是用白桦树皮制成。北海道及周围的岛屿上生长着大片的白桦林,每年六七月间,阿伊努族人就剥取白桦树皮并储藏起来,需要的时候,经过水煮火烤,树皮能自由弯曲,可以制成各式服装。如有特殊的需要,还能在服装上雕刻染色。这种衣服精巧别致,可防湿御寒,看上去不像是用树皮做成的。   阿伊努族人渔猎自足的生活方式,随着明治维新政府同化政策的强制实施逐渐消亡。当时的政府让住在岛上的阿伊努族人迁到北海道,1898年又颁布了《北海道旧土人保护法》。“旧土人”指的就是阿伊努族人。法令禁止阿伊努族人保留自己传统的风俗和文化,禁止他们打猎,要求他们从事农业活动。这项法令实行了100年,直到《阿伊努文化振兴法》颁布后才被废止。   人神关系是对等互惠的   阿伊努族人没有自己的文字,在他们独特的阿伊努语中,“阿伊努”意为“人”,成年的男女都可称“阿伊努”。现在,会说阿伊努语的多是老人。   阿伊努族人是有神论者,自然神有火、水、风、雷等,动物神如熊、虎、鹰、鱼等,普通的事物如房屋、船只等也有神,此外还有山神、湖神等。他们崇敬这些神,因为神给他们带来了巨大的利益。   在日常生活中,阿伊努族人都要举行祈祷仪式敬神,期待着神的回报。如果祈祷没有实现,阿伊努族人也会诅咒神。比如,人们用鱼叉叉到了一条巨大的旗鱼,由于鱼也是神须小心侍弄,可如果受伤的鱼乱“跳”,使小船颠簸发生危险时,阿伊努族人就会说:“乖乖地听话!我会用隆重的礼仪把你送回神的世界。可要是不听我的忠告一意孤行的话,只能暴尸海滩,成为乌鸦之食。你的灵魂也将坠入地狱!”在阿伊努族人的眼里,人和神是对等互惠的。   盛大的“送熊灵”仪式   对阿伊努族人来说,熊是最重要的神之一,因此,“送熊灵”仪式是一年中最盛大的祭典,是阿伊努族人保存民族文化的一项重大活动。   “送熊灵”就是欢送熊神的灵魂回归天国,是为杀熊而举行的一种仪式。被杀的都是小熊。冬天,阿伊努族人猎获幼熊,先饲养一两年,待其稍大后再举行仪式。   阿伊努族人认为,神附着在熊体上来到人间,杀死熊,是把神的灵与肉分开,熊的肉和皮毛是神的衣裳,是神赐给人的礼物。接受了礼物的人要举行隆重的仪式,欢送神回到神的世界。   “送熊灵”仪式在每年的一月份举行。仪式举行前两周,阿伊努族人开始准备酿造仪式上用的酒,筹备祭坛、木材、服装和各种用具等。仪式举行前一天,人们向火神祷告,并开始出酒。仪式当天,在晴朗的天空下,点燃祭典之火,5个壮年男子用绳子将小熊带出,头裹围巾、身着传统树皮盛装的女人围成一圈,口中发出“嗬呦嗬呦”的声音,随着拍子跳起简单的舞蹈。   出了笼的小熊受到刺激,惊恐烦躁,左冲右撞。阿伊努族人认为,这是神在表达将回天国的兴奋之情。于是,人们带着小熊又跳又唱。然后,人们把小熊带到祭坛上,用准备好的木叉夹住它的脖子直至窒息。随后,族中的长老手持锋利的短刀,像医学解剖一样干净利落地将熊的各个器官摘出,放在雪地上。熊头和毛皮经仔细收拾干净后,在里面填上茅草和树皮,制成熊神的模样---一件惟妙惟肖的标本,摆放在祭坛上,由族中长老们带领族人喃喃祈祷,祝贺神重新回到天上。剥离下来的熊骨熊肉则被视为神馈赠的礼物,人们尽情享用,直至深夜。
回复

使用道具 举报

发表于 2007-2-4 13:26:00 | 显示全部楼层
日本人的五种意识10月11日至11月7日,我随“中国基层青年工作者访问团”对日本进行了为期28天的访问,我所在的地域振兴分团一行25人先后访问了东京、大阪、广岛、京都四个城市。在这短短的28天里,每一个人、每一件事、每一个景对我们来说都是那么新鲜,但是日本高度发达的经济、巨大的社会财富并没有给我们带来多大的冲击,真正令我们所思所想的是财富之外的日本人的所作所为,他们的敬业、自律、讲究礼貌和社会公德,并由此给社会创造出来的安全感和舒适感。 日本人的敬业意识 从到达日本的第一天开始,团员每天就会收到第二天的日程安排,几点到几点干什么,行程安排几乎能精确到分。在日本期间常陪伴我们的是日本青少年财团能力开发协会的常务理事松尾笃、事务次长堀添英人和国际协力事业团的协调员铃木三惠子、植田臻。作为组织整个活动的“灵魂”,松尾在我们访日期间一直“身兼两份工作”:能力开发协会每天的工作和安排、陪伴我们的工作,他常常在一天活动结束、送我们回饭店后继续去上班,或者在早上来饭店接我们时已经开完了能力开发协会的早会。堀添英人是个24岁的小伙子,被团里的所有成员呢称为“小弟弟”,但这位小弟弟却常让团员刮目相看。有一次,在参观完国会议事堂后中午用餐,不知是何原因,那天的盒饭少了一份,已经在一个饭盒前坐下的堀添发现后,立刻表示他肚子不饿,可以不吃。 记者事后曾问植田臻,他为什么不向工作人员提出来(安排我们午餐的工作人员就在旁边),要求再增加一份?植田臻说,从堀添来说,也许根本不想因为此事给任何人添麻烦,更不想因此而影响大家的下一项安排。铃木是个个子不高的女士,在陪伴我们时,大家发现她几乎一直在奔跑,谁有一个问题要问她,只要叫一声“铃木”,她就会立刻跑过来听你讲话;无论是我们在乘坐地铁还是在参观旅游,铃木的眼神总是在警觉地张望,惟恐落下了谁;车一停靠站台,她第一个跑下车,站在那里挥舞手臂,让大家跟她走。植田臻是从上海旅居日本的中国人,她在工作中表现出来的高超的翻译水平以及绝不亚于日本人的敬业精神也使我们深为感动。 日本人的敬业精神是完全体现在他们对工作的精细安排之中的。在日本28天,“迟到”两字从我们的生活辞典中完全删去,我们每天按照日程表上安排的时间进行活动。更精确的是,每天活动结束的时间也能如日程表所示。临回国时,国际协力事业团给我们开总结会,请团员谈访日感想,这种最不容易把握时间的会议由于日方事先确定好了发言人数、发言时间、发言主题,使大家一扫平时开总结会时的拉拉杂杂,会议在原定的中午12点时准时结束。 日本人的服务意识 在日本,在任何场合是不用担心“露怯”的,因为任何地方都有详细说明。在坐新干线的列车时,每个座位的背后都表明了所在车厢和周围几节车厢的设施,注明厕所、垃圾箱、电话的位置,这些设施都用图案表示,如一男一女并列的图案,在燃烧的烟头上打上斜杠的图案,在说明的最后一行,又用日文、英文特别说明这些图案代表什么,如一男一女并列表示厕所。 日本的地图也十分周到体贴。走过一两条街,在街口就会有一张指示周围区域的地图,地图的设置不是上北下南之类的,而是空中俯拍式的,人冲着地图,就能立即找到前面、背后、右手边、左手边是什么,有人戏称,这是傻子都能看懂的地图。 日本的饮食可能不一定对中国人的胃口,但进日本餐馆点菜却绝对没任何担忧。每个饭馆门口都有一个橱窗,里面是用蜡做的完全逼真的食物,展示出来的食物内容、形状、数量和实际端出来的完全一样。橱窗里没有陈列的,还可以看餐馆内的拍成照片的菜谱,要花多少钱、是什么菜品,在吃之前就已了然于胸。 日本人的质量意识 刚到日本上街购物,面对满大街琳琅满目的商品不知孰优孰劣,同行的“日本通”告诉记者,日本没有假货,你只管放心购买就行。28天下来,发现这位“日本通”所言不差。从外表看两条一模一样的珍珠项链,一条标价2000日元,一条标价20万日元,那2000元的一定是人造珍珠,而20万的则是天然珍珠。看看商品的标价,消费者大致就能猜出商品的档次。 仅仅用不卖假冒伪劣产品来评价日本,恐怕还远远不够,实际上,日本人的质量意识几乎已深入到骨髓里。记者的民宿活动是在中川常一郎先生家度过的(民宿即到日本人家中吃住,体验日本普通家庭的生活)。中川先生在大阪府的和歌山县买了一幢2层别墅,一进房门,只见木地板、墙壁、厨房、卫生间都平整、光亮如新,给人的感觉好像是刚买的房子。但中川先生的回答却完全出乎我的意料:他们在此已住了11年!在日本,房地产商销售的都是装修好了的房子,中川先生入住时只需买一盏灯。据中川先生介绍,他还没听说过谁家房子在住了一两年后出现木门、木地板变形、墙皮开裂之类的“事故”,如果真出现这样的质量问题,房地产商在10年内会给予免费维修。 在日本,最舒适的是上厕所。无论是在饭店、商场,还是地铁车站或街边小饭馆,进到任何一家厕所,墙壁、地砖、卫生洁具等都锃亮洁净。在日期间,没有见到一个水龙头跑冒滴漏,也没有马桶漏水或厕所门插销坏了之类的“别扭”之事,而且所到之处,厕所均无异味。日本劳动力奇贵,公共场所的厕所很少见到有人站立一旁随时清洁,记者曾好奇地询问一位日本工作人员:厕所为什么没有异味?她回答说:这可能有三个原因,一是洁具本身具有除臭功能,二是洁具表面制造得非常光滑,水能将污物冲洗干净,三是下水道设计得非常科学,不返味。 铃木三惠子曾用这样的比喻来形容日本人的质量意识,她说,如果美国人首先发明了电梯的话,那他们可能会满足于电梯能上能下就行了,但日本人一定会改造它,让电梯在停靠时,与楼层完全处在同一平面上。 日本人的自律意识 日本是地铁极为发达的国家,在东京和大阪,地下都是空城,从地面上任何一栋高楼往地下走,都能通向地铁车站。去往较远的城市时,还有高速的新干线。但无论是在拥挤不堪的地铁车厢里还是在新干线的火车上,都见不到一点垃圾。在车站站台,会经常看到人们手里拿着饮料空罐、废报纸等各种垃圾下车,并将这些垃圾分好类后投进垃圾箱。记者曾在地铁车上看到一位父亲拿出纸巾给感冒的女儿擦鼻涕,擦完之后,坦然地将那沾满鼻涕的纸巾放进了他的公文包里。 排队是日本的一景。乘车排队、在公园里游乐排队、去餐馆吃饭排队、上厕所也排队。记者在大阪住宿的格兰维亚大饭店地处市中心,在地下购物和乘车的人十分繁多,饭店一楼的厕所也就常常排着长队(在日本,宾馆、饭店、写字楼等厕所都免费向社会开放)。到此“方便”的过路人只要看见厕所大门外有一人等候,就会跟随在后面排队,从里面出来一个再进去一个,那安静和耐心的样子很难看出来是急着上厕所的。在日本乘滚梯也排队。所有站在滚梯上的人都不约而同地靠左边站立,留出右边的通道给那些在滚梯上还要行走的人。 在街上有一个有趣的景象是许多女孩提的手包都是没有拉链的。手机、钱包、照相机等一览无余地放在敞着口的包里。女孩们就拎着这样的包挤地铁、逛街。与此相同的另一个景象是,在东京和大阪,地上地下都是鳞次栉比的小超市,里面的商品一直摆到了大门外,既没有工作人员看守,也没有防盗磁、防盗门之类的仪器把守,但据说失窃率并不高。 日本人的未来意识 在日本,记者不止一次听到老一辈的人批评现在的年轻人没有理想,到底什么是理想?在大阪接待我们的大阪府青少年活动财团的一位负责人解释说,不能说每一个日本青年都没有理想,但是大多数青年人没有具体的生活目标。很多年轻人坐在老一辈的成果上,没有考虑自己将来如何去奋斗。这位负责人说,现在的年轻人也比较自私,他们只考虑自己将来会怎样,能找到什么样的工作,而不考虑将来的社会会怎样,世界会怎样,像现在日本的政治选举,青年人很少会去投票。 确实,现在日本青年的开放和现代感已经大大超出了中国人的想象。在东京街头,找一个黑头发的年轻人远要痹灰一个黄头发的年轻人困难得多。不论男女,几乎个个都染着黄头发。在街头,还可以经常看到一些鼻孔、嘴唇上穿着环子的年轻人招摇过市。穿着鞋跟高达15厘米的长筒靴的女孩更是街头一景。穿着这种鞋子,走路几乎摇摇欲坠,连迈个大步都困难。在东京的原宿,那些脸上涂得乱七八糟、打扮得非人类的年轻人更是让人匪夷所思。日本青年的开放和现代不仅表现在外表上,实际上,他们的内心也越来越远离日本的传统观念。 但这些并不意味着日本青年完全活在自我之中。日本有一支名叫青年海外协力队的队伍,日本==定期在全国招募各行各业具有一技之长、志愿到海外艰苦、贫困地区从事无偿技术援助工作的青年,这些青年不拿工资,==不给推荐工作,援助工作一般任期两年。截止到1999年底,日本已向中国派遣了369名海外协力队员,足迹遍及28个省、自治区、直辖市。记者在日本遇到了曾到中国从事这项事业的坂本毅先生。1991年,他到中国内蒙古的东胜煤矿的一所学校无偿教授日语,从条件优越的日本来到这个冬天滴水成冰、上厕所要去户外公厕、不能天天洗澡、每天都吃土豆羊肉的地方,坂本毅先生有着很大的不习惯,但是两年任期满后,坂本毅先生却选择了再延长一年,好把他已交了高一、高二的学生再教到高三毕业。他说,在中国的三年,使他明白了有钱并不等于幸福,他从东胜人邻里之间富有人情味的相处,东胜人的乐观快乐感受到了最淳朴的幸福感。一个人,要抛弃优越的生活,去吃苦无偿地为他人做事,这是需要相当勇气和奉献精神的。 当然日本绝不是一个十全十美的世界,目前他们也面临着一大堆社会问题,就像我们一方面看到女士提着敞着口的包上街,另一方面又在大阪亲眼看到接待我们的负责人的装有诸多贵重物品的手提包被偷走。听说日本社会现在的恶性案件也比前几年有明显的上升。就在我们到达日本前不久,一位青年就劫持了公共汽车,导致一人死亡。但是日本的繁荣绝不是偶然的,我们在这个经济高度发达的社会背后看到了一种非常值得我们学习的东西,那是一种不需要我们任何物质投入、却要在精神上付出巨大努力的意识,而这种意识最终又能创造出无价的物质和精神财富。
回复

使用道具 举报

发表于 2007-2-4 13:27:00 | 显示全部楼层
日本传统文学种类[记纪歌谣]日本最古老的歌谣,最早的记录见于《古事记》,《日本书纪》中,称之为日本歌谣之总称。 分为宫廷礼仪歌谣、民谣、创作歌谣三类。主要产生于神武天皇、景行天皇、仁德天皇、雄略天皇时期(约公元二~三世纪),但有不少为后人伪托,如细川藤孝在这方面就是一位大师级人物。由万叶假名记录,采用一字一音的手段进行。 可分为长歌、短歌、旋头歌、佛足石歌、片歌等,多数为五七音数律。也可使用序词、枕词等。[和歌]       也称歌、倭歌、大和歌,日本诗歌体之一。 得此名的缘故是因为与盛行于南北朝的汉诗(就是唐诗)相对,故名。最早见于记纪歌谣,八世纪下半叶第一部和歌总集《万叶集》出现后,其型架才告完成。与汉诗在韵律方面不同,和歌只有音数律和句式的约束,无押韵、对仗等规定。 短歌的音数律和句式是五七五七七,共三十一音;旋头歌为五七七五七七,共三十八音;佛足石音为五七五七七七,也为三十八音;长歌后附有一或数首反歌,用以概括吟咏长歌的主要内容或补足未尽之意。 《万叶集》时代的和歌(既最早的和歌时代)多以五七调为主,多用枕词,序词。到了平安朝以后以五七调为主,枕词多已不用,代之以挂词、缘语等。各时期的和歌都有其独特的歌风。《万叶集》作品题材比较广阔,反映现实生活,歌风质朴,以直抒胸怀居多。(就像乐府题材的诗歌一样)十世纪初,第一部和歌集《古今和歌集》问世,当中作品题材逐渐脱离现实生活,注重表现技巧,吟咏对象以"花鸟雪月"为主。十三世纪初出现的《新古今和歌集》收录的全部都是短歌,此后短歌逐渐成为和歌的同义语。《新古今和歌集》追求幽玄余情,讲究语言的韵律和妖艳,有很浓的唯美主义,在文学艺术上达到了最高峰。明治维新前后,受到西方"荷学"的影响,日本产生了不少歌咏人生、批判社会的歌人,将日本歌坛的主导倾向又改为古代传统《万叶集》的继续。       [早歌]流传于镰仓,室町时代的歌谣。最早叫做早歌,后称宴曲,也称郢曲。源自平安朝时期的宫廷音乐、歌谣和寺社的声明,扇拍子加尺八伴奏,节奏较快,由数人齐唱。多为长篇叙事歌谣。是流行于武士阶级的艺术,在表达他们的思想和愿望的同时,也保留着一定贵族阶级的趣味。[东游歌]古代歌谣之一,东国艺能歌谣。平安时代经常在宫廷、寺社舞乐中演出。 到了延喜年间(公元十世纪早期),才改变了初期无一定式的尴尬局面,为朝廷规定为一歌、二歌、骏河舞、求子歌、片降五种。        [小歌]       古代歌谣之一。古代宫廷歌通称大歌,民谣等民间歌谣如《琴歌谱》等通称小歌。(一般指室町时代至江户前期在平民百姓流行的歌谣)。 形式多样,短小,主要为七五七五音数律。内容多反映平民生活及真挚爱情故事。小歌常与狂言融合在一起,成为狂言小歌。但是,由于江户后期三味弦歌的出现,逐渐被其取代,现已基本消失。       [连歌]平安末期至江户初期盛行的一种即席唱和的诗歌形式。(在战国时期也很流行哟!) 构成连歌的基本单句是句,一句称为一韵。首句为五七五长音的句,称发句,以下各句均称付句;次句为七七音的短句,又名胁句。长短句交互吟和,既称连歌。第三句又名第三,第四句至末句统称平句,末句又称举句。前后句在内容上要保持一致性,又各要新意(好恐怖的规则啊!恐怕我是作不出的了) 连歌创作要遵守要称为连歌式目的规则,创作连歌时要举行连歌合,参加者称为连众,职业连歌作者或宗匠级人物称为连歌师,参加人数一般为几人或十数人。二至三人创作的连歌,称为二吟,三吟,一人创作的称为独吟。(好象在说废话!) 记纪歌谣中有一首大和武尊向火烧翁问出征日数的歌,后世歌人多以此为连歌起始片段。 连歌始于平安末期,这一时期的作品大多是两句一篇的短连歌,到了后来连歌发展成为锁连歌才变为无句数限制。直到战国时期又出现了三十六句歌仙、四十四句的世吉、百句的百韵、千句的十百韵等形式。与此同时,出现了许多的连歌式目和来自平民的地下连歌师,并举办群众性的花下连歌活动。 连歌尚分有心体连歌,无心体连歌两种形式,到了江户初期,无心体连歌逐渐演变成绯楷。       [狂歌]和歌的一种,也称夷曲、狂言歌、兴歌等。与正统的和歌相悖,内容卑俗滑稽。 狂歌一名最早见于延喜五年(公元905年)的《延喜式》与《和歌纲要》。镰仓时代晓月坊(藤原为守),可饮酒后作百首狂歌,可见狂歌在那时已逐渐流传。到了安永,天明年间(公元17721788年,江户中期)时期出现多名著名的狂歌作家,狂歌创作进入鼎盛时期,世称"天明调狂歌"。江户后期狂歌风格逐渐趋向纤巧,并开始走向衰落。       [风俗歌]       古代歌谣的一种,广义上指诸国地方民谣。奈良时代进入宫廷,作为雅乐传授。 平安朝时确定为神乐,进而在贵族之间余兴演出。现仅存《乐章类语抄本》中二十六首,基本形式为短歌,内容主要表达东国地方男女之间纯朴的爱情。       [催马乐]       古代歌谣之一,主要指平安朝前期宫廷贵族间流行的游宴歌谣。最早始自于乘马古谣,后由雅乐曲调演唱,分律、曲两部。内容多为爱情和幽默风格的民谣,平安后期开始衰落。       [口语歌]       短歌的一种,与文语体和歌相对而言。1888年由林瓷臣首先提出。 20世纪初,在新人的改进下,有一些创新,但都局限于用口语改写旧歌。接着,在自然主义文学运动的影响下,新的口语歌创作者在自由律倡导者矢代东村的带领下成立新短歌协会,发刊《艺术与自由》,但协会内部由于生活派、无产派、新感觉派、新技巧派、定型派、自由律派等各种主张对立,不久即解散。继之兴起的无产阶级短歌运动,广泛使用口语,代表者有渡边顺三等。 [俳谐]       古时写作"诽谐",为古诗歌一种。主要形式为发句、连句、俳句。俳谐一语原有诙谐之意。最早见于《万叶集》里的"戏笑歌"。《古今和歌集》列有俳谐歌部类。 连歌兴起后,俳谐与连歌相结合,故称"俳谐的连歌"。 镰仓时代以滑稽、机智为主的无心连歌和正统的有心连歌开始分化。明应八年(1499年)出现最早的"俳谐连歌"集《竹马狂吟集》。后来经过山崎宗鉴、荒木田守武的努力,俳谐成为独立的艺术形式,由长句和短句相互连锁构成,用语、风格不再受和歌、连歌约束,内容通俗。 江户时代贞门派、谈林派的出现使俳谐得以普及。松尾芭蕉的俳谐以枯淡人生为中心,讲求风雅,是俳谐艺术发展的高峰。 此后,小林一茶、与谢无村都是著名的俳谐作家。       [俳句]       近现代诗体之一,由五七五共十七音构成。创作时须遵守季语、切字等规则。 明治时代,正冈子规认为俳谐的连句缺乏艺术性,便将发句从俳谐里面独立出来,成为一种新的诗体。在创作上,正冈子规首倡写生说。子规死后,其观点为高滨虚子所继承。而河东碧梧桐等人在自然主义影响下,推出新倾向俳句运动,创作自由律俳句。  二十世纪二十年代后期,高滨虚子提出俳句是花鸟讽咏诗的观点。三十年代出现新兴俳句运动,其中中冢一碧楼、荻原井泉水等人又提倡无季俳句。   第二次世界大战后,桑原武夫认为传统文学对当代生活缺乏表现力,贬称俳句为第二艺术,与山口誓子等人发生论争。 此后,许多俳人有意识地在作品中反映现实。       [俳文]       江户时代文学样式之一,广义指俳人所写的文章,狭义指具有俳谐风格的散文。与连歌、和歌相比,俳文取材广泛,长于表现庶民生活,用语自由,便于抒发情感。主要特点为简洁含蓄,并带有滑稽性,多用譬喻、象征手法,表现出一种恬淡闲适的心境。 俳文一词最早见于元禄三年松尾芭蕉的信件中,根据芭蕉的观点,俳文即"实文",要写实。他的《幻住蕉记》为典型的俳文。《蒺小文》、《奥州小路》也被视为俳文的代表作。 之后,俳文一度盛极一时。明治维新后,因正冈子规的倡导,更名为写生文。       [川柳]也称狂句,杂俳之一。源于江户元禄时期流行的前句付。 其后柄井川柳评点尤精,世称"川柳点",简称川柳。宝历七年柄井川柳编定《万句合》,推动了川柳的形成。 川柳于《柳多留》集开始成为独立的诗歌形式。与俳句同为五七五音数律的短诗,但无季题、切字约束。流行于江户后期,以幽默、讽刺手法描绘世态,但受到町人的欢迎。明治维新后,川柳已无江户时代的魅力,但作为一种讽刺短诗仍存在于文坛。
回复

使用道具 举报

发表于 2007-2-4 13:29:00 | 显示全部楼层
战前日本的民居建筑风格日本是四面环海的岛国,为使房屋不被飓风刮走,不因地震而毁坏,他们得建造一种什么样的房子呢?除了台风和地震之外,日本还经常受暴雨袭击,甚至还有洪水和山崩,建造的房屋怎样才能经受住自然灾害的袭击?这些问题在日本不论是远古还是现今,都是房屋设计者所面临的挑战。与西方古建筑的砖石结构体系相比,日本民居建筑的最大特点是采用了木结构体系。木结构的优点除了材料采伐到施工都比较便利外,最重要的是能够防御地震。1995年,日本阪神发生了大地震,数以千计的办公楼以及高速公路毁于一旦,但更多的民居楼瞬间即被烧毁,印证了日本建筑的最大破坏者不是风、地震和水,而是火。我们在考察中也发现,一些建筑的墙壁、城堡的地基、矮墙,还有很少一部分新式建筑开始使用少量的石头,但通常不用砂浆。民居用材最多的是一种叫针叶树的木头。干燥的木头遇火即燃,这是常理,也是日本民居怕火的根源。日本民居独特的建筑风格却引起了我们的浓厚兴趣。我们从日本首都东京出发,沿箱根-京都-大阪的线路考察过去,除了京都、名古屋、大阪等著名城市外,城镇和乡村已浑然一体。所见的民居有的是平房,有的分上下两层,大都是单门独户,房屋间深不足10米,体量不大,整体造型既包容了中国古代建筑的风格,又吸收了西方现代建筑的精华,显得古朴简洁、小巧玲珑。建筑艺术素有凝固了的音乐之称,如果把这一幢幢民居当作一个个飘动的音符,那么日本民居的传统建筑风格岂不就是一曲凝固了的音乐!材料的不同,结构方式不同,建造出来的房屋形态自然不同。而即使使用相同的材料与同样的方式,在不同国家与地区,有不同的民族背景,也会出现不同的样式。据导游介绍,日本人对树木的喜爱与日本房屋建筑的基本结构为柱和梁有直接关系。这种结构基本上像一个盒子上面戴顶帽子---屋顶,设计的自由度很大。日本人比较喜欢大屋顶,有些民居的屋顶甚至痹畸个房屋高出二分之一(如图③)。这和我国古代建设中的“大屋顶”十分相似。所不同的是,日本的民居设计以直线型为主,很少采用曲线,没有拱形结构。有些地方即使采用了曲线,也非常平缓,与占主导地位的平面图形产生鲜明对比,有一种弧线美。与日本人快节奏生活方式相协调,传统日本民居的内部装饰所使用的材料很少,且非常有限。特别是供国外旅行者居住的日式旅店,地板上铺着厚厚的有弹性的稻草或平木,再放上编织好的榻榻米垫,布置洁简,空间面积很小。望着别具一格的日本民居,我忽然想起了“木工祖师”鲁班,心想:我国该拥有世界上最古老的木制建筑群。然而,日本导游却说,世界上最古老的木制建筑群保存在日本的伊势神宫。伊势神宫位于奈良和京都以东,禁止游客造访。据那位导游说,伊势神宫均用古柏做材料建造,虽然经历了岁月的侵蚀,却依然崭新如初,这其中的奥秘在于一种叫“还宫”的习俗。在过去的13个世纪,每20年举行一次。最近的一次也是第61次在1993年。所谓“还宫”,就是在即将拆毁原建筑之前,在旧神社旁用相同材料建成同样规模大小的新神社。为什么要这样做呢?据介绍,首先,20年可以看成是一种转变。在人的一生中,以20年为界划分每代人。另外,20年可能对于建筑技术的代代相传也是一个比较合理的间隔。但是,不管怎样,从历史角度来讲,日本式建筑展现了一种舶来的大陆式风格(主要来自我国,但也受朝鲜半岛的影响)与纯日本式风格的辩证统一。从我国和朝鲜半岛借鉴的建筑风格经改变、改进,比较符合日本国国情日本的现代民居,仍然是木结构
回复

使用道具 举报

发表于 2007-2-4 13:35:00 | 显示全部楼层
日本国宝文简类 【天寿国曼茶罗丝绣】日本早期推古时代的重要文物。现藏于日本中宫寺。绣晶上现仅存有比五敲钟、天女飞翔、玉兔捣药、莲花坐佛等部分。色彩简单,线条雄力,有韵味。据传上面的图像是圣德太子之母桔妃于公元621年所绘。 【《万叶集》】日本国宝。是日本最古老的诗歌总集。计20卷,共4500多首诗歌,开创了日本和歌的道路。内容有杂歌、挽歌、相闻(广义指答歌,狭义指恋歌)。体裁有长歌,短歌、旋头歌。署名作者中有天皇、贵族、僧侣、文人等近四、五百人。无名氏的作品多来自民间歌于、农民、士兵等,约占总诗集的三分之一。土要作者有天智天皇之妃、女诗人额田王、柿本人磨、高市黑人、山七亿良、山部赤人等。其中柿本人磨和高市黑人开创厂和歌时代,山上亿良的《贫穷问答歌》是唯一反映贫苦人民生活的绝唱,山部赤人的杰作为《望不见(富士)之歌》。这奉诗集题材广泛,反映了古代日本人民的生活状况,不愧为日本后代诗歌的模本。 【开宝敕版大藏经》初印本】日本重要文物。宋太祖在位时,曾下令雕版印刷《大藏经》。从开宝四年(971年)至宋太宗兴国八年(983年)才完成,历时12年。日本著名僧侣奋然拜谒了米太宗后,太宗在其回国时赐于《大藏经》印本。该印本印刷的字体清楚,谬误极少。在日本,当时许多佛教界人士视为抄写篮本。促进了日本刻版事业的发展,为日本研究佛经提供了条件。 雕塑类 【舞蹈者植轮】日本古代植轮艺术作品中的杰作。植轮就是日本古坟时代专门制造的一种用于墓葬的陶质明器。其中“植”为“陶土”的意思,但“轮”至今解释不清,舞蹈者植轮共出土了2件。植轮表现的是一个舞蹈者,身躯中空,高举双臂,形态逼真,富有抽像性,眼睛和嘴巴都用圆圈表示。 【男子弹琴植轮】日本古坟时代植轮艺术作品。表现的是一男子正用双于抚着置于膝上的古琴,其神态温和,坐姿端庄,似乎沉醉在音乐中。作品高约73厘米,是在日本群马县前桥市朝仓古坟出土的。 【如意轮观音像】日本国宝,现保存于日本奈良县斑鸠地方的尼姑庵一中宫寺。是飞鸟时代的代表性佛像,由一根桧木雕刻而成,高约6米。 【卢舍那大佛】日本国宝,始铸于752年,后曾两次毁于战火。现存佛像重铸于17世纪。佛身高16.21米,脸长4.84米,眼长1.18米,鼻高0.49米,耳长2.58米,总重达452吨,是世界上最大的铜像。现存于日本东大寺内。 【旃檀释迦佛像】日本国宝。据史书记载:天竺国优填王在世时,曾经下令毗首羯摩用旃檀木雕制释迦佛像。东晋时,前秦将军吕光征服了西域的龟兹国后,遂将流传至龟兹国的释迦佛像带回国内。后来的历代皇帝极为珍惜,宋太祖曾将其珍藏于东京开宝寺永安院。宋太宗又移入大内滋福殿,后又转移到西化门外的启圣禅院。雍熙元年(984年),日本僧侣奋然和徒弟到中国,次年请中国名匠按原样仿刻了一尊释迦佛像。佛像高5.35尺,体内保存有许多珍贵的文物。其中妙善寺众尼施舍的一幅绢制的不同颜色的人体五脏模型。具有很重要的研究价值。在白色手绢背后,众尼还将佛像内封藏的原由记述了下来。佛体内,还藏有许多绢片。如纱、艾义纱、绫、文罗、秋罗、夹缬、毂纹等。中国明代高僧隐元禅师瞻仰了此佛像后,在清凉寺正门的横额上题厂“旃檀瑞像”四个字。旃檀释迦佛像现存于日本京都清凉寺。释迦佛像因此也是中日友好交流的历史见证。 【良弁僧正像】日本子安时代的肖像雕刻作品。属木雕。现存于日本东大寺内。作品表现了日本高级僧正良弁,为了炼成佛国圣者,一心苦修行。造型上的菩萨耳朵被理想化,鼻子富有个性,身体强壮。表现出了他对佛性的追求。 【镰仓大佛】日本国宝。现存于日本本州中南部镰仓市高德院内。本为木雕。始造于历仁元年(1238年),至宽元元年(1243年)完成。是出口奉僧人净光通过化缘集资而完成的。宝治2年(1248年),山于台风的破坏,佛像及殿舍均遭破坏。建长4年(1252年),口本雕刻家小野五郎右卫门义铸造了青铜人佛。1393年,供奉青铜大佛的殿舍又-次遭到暴风雨的破坏。1495年,又发生了-次巨大的海啸,但青铜大佛却安然无恙。青铜大佛包括台座总高13.35米,大佛本身高11.312米,重122吨,底座周长9 6英尺,大佛头上的656个发卷,每个直径9.5英寸。大佛盘腿端坐在2米多高的台基上,双手交叉置放于盘坐的双膝亡,臀部枕在脚跟上,头微低,双目微闭,双耳垂肩,表现出了佛清心寡欲,信念坚定的形象。整个雕塑显得体态丰满,具有“安定美”的造型风格,因此被视为镰仓的象征。大佛被珍藏于高德院内石座上,座壁有门,内壁中空,通过小门可进入佛体内部。若沿梯而上,便可到达佛顶。佛前有香炉和钱箱。 【十一面观音立像】日本镰仓时代的木雕像。镰仓时代是佛教的极盛期,由于佛教此时平民化,与佛教有关的美术形象亦完全世俗化。加上受到中国唐朝的影响,日本的观音菩萨多为女性,态度雍容华贵,面目慈祥,富有亲切感,《十-面观音立像》中的主佛之上的十面小型观音融为一体,光轮为许多曲线,身后的大幅透雕装饰纹板,上面的七个金轮,代表了佛教的重要象征物**,色泽艳丽,雕工精细。具有典型的日本民族风格。 【长崎“和平祈祷像”】位于日本长崎和平公园内。1955年8月由日本著名的雕刻家北村西望雕刻而成。这是一尊男和平神铜雕像,高9.7米,重30吨。男和平神双目微合,右手上举,食指朝天,象征着原子弹从天投掷;左手平伸,手掌朝卜象征着祝福天下安宁,世界和平。右腿呈盘腿打禅状。像前的长方形大理石台座上,刻有部分原子弹牺牲者的名字。 绘画类 【阿弥陀净土图】日本飞鸟时代佛教绘画作品。据吏书载,公元603年,日本圣德太子曾请中国唐代画师到日本为佛寺绘画。即《可弥陀净土图》是日本法隆寺壁画幸存部分。因此,这幅图明显地具有初唐遗风。图中观音菩萨神情温和、慈祥,眼睛很大,嘴较小,体态丰满。众菩萨都配有宝冠、璎络,耳环、手镯等饰物,显得雍容华贵。 【舍身饲虎图】日本飞鸟时代佛教绘画作品。作者不详。因绘于佛龛“玉虫柜子”板面上而得名。该佛龛是用甲虫彩翅镶嵌而成。四面绘有图画,正面是《舍利供养图》,左侧是《金光明经舍身品舍身饲虎图》,右面是《涅盘经行品施身闻偈图》,背面是《须弥山图》。描绘的是佛的前世摩诃萨捶那王子和两个弟兄在山中游玩,突然遇到一只母老虎和几只饥饿待哺的小老虎。两兄弟见此情景惊慌失措,于是掉头就跑。太子却悲从心来,毅然纵身跳下山崖,因土子舍身入虎口,所以后来得道转世为佛。这幅画依此故事情节共分二个部分,第-部分是王子站在山崖上,脱去身上的长袍,然后跳下了山崖,王子被母虎及几只小老虎吞噬。整个画面动作连贯,人物形象生动,逼真。其风格近似于中国南北朝时的石窟艺术,对以后的日本绘卷物影响较大。现存于日本奈良法隆寺。 【法隆寺金堂壁画】法隆寺位于日本古都奈良县斑鸠町。是日本最古老的佛寺之一。法隆寺金堂四面较大的墙壁上都有四个天界景象,内容丰富,是日本及东方艺术的杰作。金堂北面的墙壁上绘有弥勒佛和药师佛,东面墙壁上绘有佛教始祖释迦牟尼佛,西面墙壁上绘有阿弥陀佛。四个天界中央的主佛法座,被俗称四大天王的护法天神和众菩萨围绕。上面的宝盖两边各有--飞天(因法隆寺在1949年遭火灾前,宝盖上的飞天已在修缮前事先剥下来,故保存较好)。下面有-张祭桌,两头狮子。八角壁面上的八尊菩萨像两两相对,或坐或立。整个墙壁上部空白处是隐士们在山中修行。画面大小不一,但布局对称,显得很整齐,手法多样,风格独异,体现了日本7世纪末的佛教艺术绘画风格。 【吉祥天女像】日本奈良时代佛教绘画作品。因绘制于麻布上,又称《麻布吉祥天女像》。约创作于公元?72年。画中的女神体态丰满,神情庄重慈祥,身着丽裳,脚踩祥云,手托璎珞,头顶上是象征佛法的光环。整个画面色彩绚丽,描绘细腻。现藏于日本古都奈良药师寺内。 【地狱绘草纸】日本平安时代(794年-1192年)的佛教绘画作品。“草纸”即现代的连环画。共有5套,以原氏所藏为佳,共7幅。画中诸鬼眦牙裂嘴,身躯枯瘦,面目狰狞。有的倾倒罪入骨头,有的捣磨罪人的身躯。诸鬼呈红、桔、紫等色。最有代表性的是一幅佛教八大地狱之七--大热地狱的巨型魔鬼正挥舞着阴棍魔杖把罪人赶进燃烧的烈火之中。其形象凶恶,令人恐怖。罪鬼身体矮小,已在前几座狱中受尽了折磨,但画中的罪鬼形体明朗,轮廓清晰。面对即将就要把自己化为灰烬的大火,罪鬼企图作最后的挣扎。魔鬼极为恼火,怒吼着,无情地抽打罪鬼,罪鬼被迫一步步地踏入堆满尸骨的烈焰中。图画题材与情节离奇,笔法狂放.造型夸张,魔鬼青面獠牙,人兽皆非,面目狰狞。整个气氛显得阴森黑暗,深暗无底,佛教也借此褒善惩邪,教育后人。 【琵琶面绘舞乐】日本8世纪有名的人物山水画。因描绘在琵琶面上而得名。画中四个人物描绘得形象逼真。画面上,一只白象走在溪水边,三个乐师和一个跳舞的人骑在上面。两个穿着中国服装的乐师,吹着横笛。另一个乐师模样儿有点象波斯人,胡须向两旁翘着,头上带着高高的宽边帽子,正有力地敲打着一面小鼓。另一个跳舞的年轻人,也戴着高高的宽边帽,伸开双臂,载歌载舞。画面背景为漂渺的云烟,幽深的山谷,险峻的峰岭。山崖上,耸立着几棵红梅。瀑布一泻干丈。落山映红了地千线,一群飞鸟排着长长的队形,向远处的山谷飞去。作者在画中采用了透视法,虚实结合,静动相补。画面虽然狭长,但人物的欢乐气氛,飞鸟的活动,山水景物的深远,都反映在了画面上,不愧是日本典型的风景画杰作。这幅画现珍藏在日本正仓院中。 【树下美人图】日本公元8世纪的屏风画,是日本正仓院里收藏的有名的御物珍品。属公元756年光明皇后赐予东大寺的一百件屏风中保留卜来的唯一一件绘画屏风。屏风上饰有六块画屏,一般称之为《树之美人》。每块画屏上都有一漂亮的贵妇人,穿着中国式的服装,有的坐在石头上,有的站在树下。其服装、发型及面部装饰都明显地受到中国唐代长安的影响。画中美人相貌端庄,面容整洁。画的背面有行政档案碎纸上记载的日本752年的字迹。 【真言五祖像】日本佛教绘画作品。在日本,真言五祖金刚智、善无畏、不空、一行、惠果皆为佛教真言宗所供奉的始祖。这幅画中的金刚智、菩无畏、不空属古印度僧人,一行、惠果为汉僧。画中人物形象各有特色。前三者的表情沉稳,似沉思冥想,目光深远,脸颊隆起,鼻子钩起,胡子浓密。后两者则眉清目秀,手放在胸前,正虔诚地传授真言宗。其中唐朝人李真所绘《不空像》最逼真,现藏于日本京都救王护国寺。 【阿弥陀佛如来坐像】日本奈良时代早期的佛教美术作品。“阿弥陀佛”为佛教净土宗“西方极乐世界”主佛,即佛教始祖释迦牟尼化身,“如来”为佛号之一,来自佛教教义“真实觉悟”、“如实到来”,是借助于释迦牟尼形象加以发挥的。佛教6世纪从中国经朝鲜半岛传入日本后,到了奈良时代,圣武天皇大力提倡发展佛教,所以日本此时建造了许多佛寺佛塔,还铸造了许多佛像,而且此时的建筑、雕塑、壁画都明显地受到中国隋唐影响。因此这尊佛像,从容貌到体形,从姿势到衣着,都具有中国隋唐风格。发髻匀细,五官端庄,手势微妙,结构精细,线条流畅,技法成熟。 【麻布菩萨图】日本奈良时代佛教绘画作品。又称《乘云菩萨图》。属水墨白描画。图中的菩萨左手向前伸展,右手端放胸侧,上身赤裸,盘腿坐在祥云上,正从天而降。这幅画结合了中国的水墨画技法和日本的白描画法。线条流畅,给人以迎风招展,腾云驾雾的动感。具有中国唐代著名画家吴道子的“吴带当风”的风格。因绘于麻布上,故得名《麻布菩萨图》。现存日本奈良正仓院。日本奈良东大寺每次举行重大的佛事纪念活动,都要把这幅图张挂起来。 【风信帖】日本国宝。是日本著名高僧空海的遗世书法。空海曾跟随日本遣唐使到中国学习佛经与书法,回国后,仍然潜心研究中国佛经与书法。在吸取了中国东晋时的书圣王羲之和盛唐颜真卿的书法特长的基础上,他又开创了自己的风格。对中国书法中的篆、隶、楷、行草书体造诣颇深,并和嵯峨天皇、桔逸天皇被称为日本书法“三笔”。代表作有《风信帖》、《执笔法使笔法》、《灌顶记》、《临急就章》等。其中《风信帖》深得众人喜爱,成了后人临摹的典范。 【慈恩大师窥基像】日本11世纪的佛教绘画作品。慈恩即中国初唐法相宗的创始人。这幅画中的慈恩大师盘坐在一张方桌上,旁边的笔砚极为考究。既有中国唐代的人物造型风格,又有口本民族情调的色彩。日本每年都要在纪念慈恩大师的时候,悬挂依据中国原形重新创作的慈恩人师像。现存奈良药师寺。 【救王护国寺山水屏风】日本11世纪风俗山水画。因存于日本京都东寺(即救王护国寺)而得名。属绢画。有人认为这幅画中正在小木屋里握笔推敲诗句的诗人有可能是中国唐朝诗人白居易,并进一步推断这幅画有可能来自中同。日本一些画家对这幅画进行临摹及修改。结果画中的白居易渐演变成远离尘世喧哗的隐士。小木屋前有-年轻人和他的侍从骑马前来拜访诗人,群山J中樱花盛开。整个画面春机盎然。 【柏木章图选】日本12世纪《源氏物语绘卷板木章》中的第三幅画。柏木是日本光源皇子的侄子,光源皇子之妻与柏木私通生下了薰。这幅图措绘的是薰出生第五十天时,光源皇子怀抱薰为他祝贺。 【宿木章图选】日本公元12世纪《源氏物语绘卷·宿木章》中的一段。描绘的是源氏之孙句句之宫太子与其嫂泛舟之间的爱情故事。画面右边是-间小屋。屋中句句之宫太子为了安慰知道此事的妻子宇治公主,特意为她弹奏琵琶。左边是花园。风吹着竹帘发出沙沙的声音,使画面显出伤感、愤闷的气氛。左右构图不均衡。 【信贵山缘起绘卷】日本公元12世纪一部民间故事连环画。包括“飞仓之卷”、“延喜加持之卷”、“尼君之卷”二卷。描绘了日本公元9世纪末僧人明莲的故事。第一卷描绘了信浓山区的一个土著佛僧受戒修行厂日本奈良东大寺,每口用托钵向周围的村庄化斋乞讨的故事。第二卷描绘的是重修信贵山佛寺的明莲用神奇疗法为日本天皇诵经治病。第三卷描绘的是明莲和多年失散的姐姐久别重逢的情景。这套绘卷以描绘信贵山佛寺的起源而得名。表现自然,又具有通俗性,且多用漫画笔法。现保藏在日本奈良信贵山朝护孙子寺。 【飞仓之卷图选】日本12世纪的通俗性民间故事连环画《信贵山缘起绘卷》中的《飞仓之卷》首幅。《信贵山缘起绘卷》描绘的是日本僧人明莲的神奇故事。共三卷。《飞仓之卷》为第一卷。这幅图画描绘的是明莲和尚早年受戒于奈良东大寺,后到信贵山上修行。由于生活极端艰苦,每天只好用随身携带的托钵向周围的人们化斋乞讨。神通广大的托钵每天在主人的安排下,腾云驾雾,每天给主人取来所需食物。不料此事激怒了一个有钱人家。于是就在明莲的托钵又一次前来乞食时,把它锁进自己的粮仓。托钵居然带着粮仓及粮食飞走了。这个有钱人大为恐慌,于是越过干山万岭,到信贵山上请求明莲将粮食还与他。富有同情心的明莲和尚于是就命令托钵将粮食还给有钱人。这幅画情节离奇,人物形象逼真。 【伴大纳言绘词】日本12世纪的连环画。共三卷。计227个人物。整个图画长达20多尺。属于日本绘画向非宗教性过渡时期。墨笔勾画笔法生动。这套连环画描绘的是公元866年春天,摄政大臣伴善男企图陷害其政敌左大臣源信,结果被揭发而失败的故事。画面上,摄政大臣伴善男及其子通称伴大纳言,在夜晚偷偷地跑到皇宫的正门应天门放火,然后制造谣言,说是左大臣源信所为。皇宫内膳司右兵卫舍人宣布了这件事情的真相。伴善男家族的阴谋流产,结果被罚流放到东边遥远的边疆。藤原家族也取而代之。这套绘画现被东京洒井氏保存。 【平重盛肖像】日本12世纪的一幅肖像画。作者是日本画家藤原隆信。作品描绘的是日本白河天皇时的大臣平重盛头戴冠冕,手持笏板,身穿黑色朝服,态度温和忠诚,脸偏左。这幅画气氛严肃,庄重,画像的下部分遭损坏,后来有人把画像中的干重盛的白袍覆盖着的盘曲的双腿及座坛边沿的装饰以布块取而代之。现保存于日本京都神护寺。 【源氏物语绘卷】日本12世纪著名的故事连环画。是根据日本著名的长篇小说《源氏物浯》绘制而成。《源氏物语》是日本宫庭女作家紫式部于1007年-1014年间创作的日本最早的长篇小说,也是当时世界上最早的长篇小说。这篇小说以光源氏为典型的代表人物,描绘了这位贵族公子一生中荣华富贵及浮沉不定的命运。计54章。这套绘卷原有10卷,共80一90幅画。每幅面都是小说中最重要的一段。因此,这套绘卷描绘了这部长达54章的长篇小说“真实生活的叙述史诗”。每幅画高8.625英寸,宽18.875(或14.125)英寸。每幅画前面书写有一段原文,书法娟秀且流利。这套绘卷原有许多部,但是最早最优秀的却是藤原隆能所绘。后来的许多同名“绘卷”都稍逊色于之。整套绘卷现在仅保存有原书中第十三章内容的19幅画。分别保存在日本名古屋德州美术馆和东京五岛美术馆,因这套绘卷的表现形式高雅、俊秀、庄重、凝练,所以又被称之为“女绘”。绘卷反映了日本平安时代宫庭生活的侧面,是日本上层贵族夫人的真实写照。整套绘卷构思别致奇巧,虚实相间。描绘景物精确细致,层次分明。线条刚柔相济,笔锋流利,伸展自如,色泽明快典雅,人物形象多样化,动中有静,静中有动,富有诗情画意,图文并茂。不足之外是人物处理形式化、勾鼻、线眼、点唇。在众多的人物形象中,对女性的心理活动刻画得入木三分,真实而感人。对于书中感人和抒情的内容作者重点处理,但对于人物形象的描绘则次之。每幅画都采用了从上向下斜视的透视方法来进行构图。从右往左打开画卷,画家虽然没有在画中突出屋顶,但可以透过画面看到屋内的情景。每幅画的主色调是依照主题而设计,对不同人物的身份及场面采用了不同的色彩。 【救王护国寺水天像】日本平安时代京都教王护国寺《十二天像》之一。作于1127年。十二天即梵天、地天、日天、月天、帝释天、焰摩天、水天、毗沙门天、火天、罗刹天、风天、伊舍那天。《救王护国寺水天像》是《十二天像》中代表日本唐绘水平的最佳作品。水天端坐蒲团上,右手举一金如意状物,左手放在腰前。其态温和慈祥,装饰淡雅。 【俱胝佛母像】日本平安时代佛教绘画作品。这幅画描绘在五层宝塔中第一层中央柱子上。画中的俱胝佛母(日本真言教派两个基本“曼荼罗”主佛之一),盘腿坐在莲花座上,16只手臂各举一法物,头上环绕着色彩缤纷的花环,衣着简朴,神态逼真。画面背景为深蓝色,轮廓为黑色,身体为淡黄色,面容呈红色。反映出了日本上层贵族的精神面貌。现存日本京都醍醐寺。 【真言八祖像】日本肖像画,绘制于平安时代。“真言”是中国唐朝佛教一派。公元9世纪,日本平安时代的高僧空海随遣唐使到中国学习佛法,回国时将唐朝画家李真所绘金刚智、善无畏,大广智、一行、惠果等佛教真言五祖肖像传入日本。这五幅肖像画技法细致严谨,形貌传神生动,曾为日本肖像画家所重视。以后又加入龙猛、龙智及弘法大师三幅肖像,合称为“真言八祖”。这八幅肖像画长期以来为日本肖像画家所效法,成为日本肖像画法的基础。 【凤凰堂圣众来迎图】日本平安时代佛教绘画作品的佳作。属壁画。描绘的是西方极乐净土世界中最大的阿弥陀佛,在众音乐天神的陪同下前去迎接从人间转世即将进入净土世界的众信徒灵魂。画中的众灵魂因生前善恶不同,受到阿弥陀佛的亲自迎接,倍受宠爱。天空下面的世俗世界是京都地区的风景,有山、水、茅草屋。佛神、音乐天、众之灵都是拟人化。整个画面净土世界与自然景物相融汇。人物心理刻画深刻,形象逼真,生动活泼。整个画面采用描绘手法,通称《来迎图》。因绘于京都平等院内凤凰堂,故得名。表达了日本贵族在死后企图继续过豪华奢侈的生活。 【释迦牟尼说法图】日本平安时代佛教绘画作品。又称《法华堂根本曼荼罗》。原藏于日本奈良东大寺内,是东大寺的艺术珍品之一。后来,在19世纪时由美国波士顿美术馆收藏。这幅画描绘的是佛祖释迦牟尼说法的情景:释迦牟尼端坐中央,四周是许多菩萨及信徒,他们都端坐周围,虔诚地听释迦牟尼说法,神情严肃、温和。该画绘在麻布上,原尺寸为42.5英寸x56.625英寸,但后来裁减过。所以现存的释迦牟尼说法图比原来的尺寸小。1148年,日本画僧珍海又重新对这幅图作了润色,并运用了中国的绘画技巧,表达了日本绘画中的民族情感。 【饿鬼绘草纸】日本平安时代的佛教绘画作品。“草纸”就是现代的连环画。这幅画中的鬼瘦骨嶙峋,腹部却肿大出奇,四肢瘦如柴棒,衣着破烂。他们在人间到处流浪,饥饿难忍,便偷偷地吃别人的粪便。体现了佛教恶有恶报及轮回的宗旨。 【绘因果经】日本平安时代的佛教绘画作品。这幅画表现形式独特,上图下文,对后来日本的木刻印刷经卷影响极大。因表现了《过去现在因果经》中的佛本生故事,故得名。画中上半部描写的是释迦牟尼的家史及其一生事迹。以树木、山石为背景。下半部是用文字讲解经题和故事情节。其中有-幅说的是释迦牟尼在青年时感受不到人世间的富贵与快乐。于是动心出家。这幅画也受到中国唐代绘画风格的影响。现在留下来的只是一些摹本,保存在古都奈良醍醐寺报恩院、上品莲花寺、东京艺术大学等地。 【马头观音】日本平安时代后期的佛教绘画。马头观音是观音菩萨六形象之-,以“马置于头”而得名。一般的马头观音,为了表达其降妖伏魔,富有正义感,作品大多描绘成人的相貌,状愤怒威猛。这幅画巾的马头观音立于台座之上,从衣着到画风都体现出了日本民族风格。而且结合了藏传佛教上下密院的“马头金刚”的形象,三头六臂或八臂,威猛刚勇,力大无比。虽然外貌凶恶,但心地善良。因它帮人们惩恶扬善,所以深受日本人的喜爱。画中观音多臂形体,笔调柔韧自如,讲究气氛渲染。 【一遍上人绘卷】日本镰仓时代巨型佛教连环图画。属绢本,计12卷,共48幅图画。作者为日本13世纪未画家圆伊。创作于1299年。一遍上人为日本高僧,早年潜心研究日本佛教天台宗及净土宗的佛理,并发展了阿弥陀佛慈悲舍身学说,创立丁“时宗派”,晚年到日本各地致力于佛法的宣传。作者就是根据一遍上人一生的事迹,进行了实地考察,然后创作此画。画面上的风土人情,与现存景物相符,是研究日本文化的宝贵资料。 【华严宗祖师绘传】日本镰仓时代的佛教绘画作品。该画描绘的是日本华严宗祖师义湘在唐永徽元年(公元650年)到中国求佛法的故事。共6套。义湘和元晓结伴同行,走到中途碰到风暴,元晓畏于困难不愿前往,便“心外无法,胡用别求”为理由又返回日本。义湘信念已定,克服了重重困难终于来到了中国,在终南山学习华严宗的宗旨。中国姑娘善妙暗恋义湘,听了义湘的教诲后,动厂皈依佛法的心思。义湘回同,善妙前去送行。不料船已启动,善妙立于码头,便将带来的一盒礼物投入海中。小盒也随着船远走了,善妙投海化为巨龙,当船到达了新罗(今朝鲜)时,善妙变成了守护华严宗的朝鲜女神。这幅画现存于日本京都高山寺。 【团氏地藏神像】日本镰仓时代的佛教绘画作品。因存于东京团氏,故名《团氏地藏神像》。图中的地藏菩萨是一青年僧入,他位于两朵莲花之上,前去拯救受苦受难的灵魂。图中地藏菩萨的衣服、禅杖,莲花座等都是金箱装饰。 【北野天神缘起绘卷】日本13世纪初连环图画,计八卷。描绘的是日本宇多天皇的右大臣营原道真由于受到反对派藤原时平的诬蔑,结果被流放到九州大宰府,最后因愤闷忧虑致死。这以后宫中常有雷击现象,一些大臣也因此丧生。当时人们便以为这是营原道真受了冤枉,他的亡鬼前来报复。于是就在公元947年在京都北野建立了以营原道真为天神的庙宇。这幅绘卷描述的就是营原道真的生活情况及其神奇的传说。 【平治物语绘卷】日本13世纪大型连环画。这套绘卷长达15卷,是根据日本历史小说《平家物语》而绘制的。描绘了1159年,日本源氏家族经过一场严峻的战斗,终于取得胜利的情景。现在保存厂来的原画有保存在美国波斯顿美术馆的“三条殿夜讨”、东京岩奇静嘉堂文库的《信西卷》中的“信西之死”、东京国立博物馆的《六波罗行幸卷》的“青年天皇之逃亡”。另外还有《待贤门合战卷》中的“待贤门的交战”的临摹本和《六波罗合战卷》中的“六波罗的战斗”里的约15幅原画也保存了下来。其中“三条殿夜时”描绘了1159年12月9闩,藤原信赖率领部队在三条殿乘着夜色突然发动丁军事政变,结果天皇、御前禁卫、大臣、宫女等仓皇逃命,有的不幸被俘或死于战火中。整个绘卷情节生动,构图连贯、运笔娴熟、场面壮观,体现了日本的武士精神。也是世界军事绘画中的不朽之作。 【瓢鲇图】日本室町时代的画僧大巧如拙的佛教绘画作品。作于1409年。作者力图表达禅宗的静思及神秘,在右上角画-群峰,在左下方画的是竹木,溪流,溪浪旁一渔夫正在等待鲇鱼上钩。而溪流中的鲇鱼却悠然自得。 【四季山图卷】]日本15世纪有名的画家雪舟等扬的水墨山水画。创作于1486年。这幅画是用17张纸接连而成的,高40厘米。画面上一年四季景色各异:春天山花灿烂,夏天树木茂盛,秋天水天茫茫,冬天清冷静寂。画面上:有山花,有树木,有渔村,有农舍,显得生活气息很浓厚,具有山水田园式的情调,很受日本画家的高度评价。这幅画也被认为是雪舟等扬进入画史名家行列的杰作。卷未题有“文明十八年嘉平日天童第一座雪舟叟等扬六十有七岁笔受”的字样。 【慧可断臂图】日本室町时代著名画家雪舟等扬的佛教绘画作品。属水墨画。作于1496年。画面上题有“四明天童第-座雪舟行年七十七岁谨图之”的字样。描绘的是河南洛阳儒生慧可为了向达摩祖师学习佛理,决意断臂,终于打动达摩,最后被收为弟子的故事。达摩是天竺香至王的第三个儿子,是佛教禅宗东土始祖,南北朝梁大通元年,经海路到达中国广州,并受到中国南朝皇帝梁武帝的接见,被安排在梁国都城建业(今南京)。后来,达摩渡江北上,来到北朝的魏国,在嵩山少林寺里终日面壁而坐,长达19年。慧可得知此事,欲前往少林寺向达摩大师学习。到了少林寺,达摩仍然面壁端坐,将慧可拒之于门外。慧可心意已定,就在门外站了整整一夜。到了第二天早晨,站在雪地里的慧可仍不动摇决心。达摩见雪已至慧可膝盖,非常感动,就询问慧可到此目的。达摩为考验慧可,仍拒绝指教慧町。慧可无奈,只好拿出身上的佩刀斩断自己的左臂,以表明自己的决心。达摩这才答应收慧可为徒。达摩“示寂”(佛教称佛菩萨和高僧之死为“示寂”)后,慧可继承了达摩的衣钵,成为禅宗东土第二代祖师。后来梁武帝得知此事,亲为达摩撰文,并在钟山刻石立碑。这幅画描绘的就是达摩面壁端坐,慧可手捧一只断擘站在达摩背后。这幅画人物形象真实感人,构图朴素自然,显得整个画面中的人物性格、禅道境界与佛教主题和谐一体。体现出厂雪舟等扬绘画中的坚强有力的笔法。 【天之桥立图】日本15世纪著名画家雪舟等扬81岁高龄时创作的水墨山水画。创制于1500年。画面上的山水风景和中国杭州 、绍兴、富春江一带的风景相似,画中寺、塔、,岛等皆有文字注明。画幅尺寸为0.894*1.688米,深受众人评价。 【秋景】日本15世纪著名画家雪舟等扬的绘画作品。这幅秋景画和另外一幅冬景图原来是双幅。属于山水画传统题材的四季图形式。在这幅画中,作者打破了以往绘画作品中的表现方法的局限性。吸取众家之长,在画中充分表现了自己的独特的艺术风格。当时的日本,已经受到了中国宋元时期水墨画风格的影响,雪舟等扬是第一位将个性与民族情感融于绘画中的创先人物。这幅画的左下角,是深色的岩石。远处是一抹山峰,隐藏在漂渺的云雾中,小路弯弯曲曲地向前延伸。笔法雄健有力,凝练、简洁,反映出了作者对于中国南宋时马夏山水艺术的理解极其深刻。同时,透过这幅作品,又能看到日本固有的苍凉的意境。 【灵云院风景图】日本室町时代狩野元信的佛教绘画作品。创作于1543年-1549年。图中的京都妙心寺灵云院被云雾遮盖。左边是一只丹顶鹤立于水边休憩。丹顶鹤之上是一棵盘旋的古松。右边是流瀑。该画现存于京都妙心寺。 【牡丹图】日本16-17世纪末著名画家海北友松的美术作品。属屏风画。创作于1595-1600年之间。画中的牡丹枝繁叶茂,有白色;粉红色、淡绿色等。一阵风吹来,枝条摇摆不定,绿色的山石和金色的背景对比鲜明,使得画面的装饰荣华富贵。该画现存于日本京都妙心寺。 【柴门新月图】日本室町时代一禅僧的佛教绘画作品。画面上,柴门、茅庐、竹园、小溪,月光朦胧,有两人赏月,旁边一小童伺候,画上又用行楷题跋,融禅、诗、画于和谐一体。笔墨简率稀疏。富有美的意境。 【吉山明兆像】日本室町时代僧吉山明兆的自画像。作者以己代佛,形象生动,简疏而清新。反映了作者不拘限于模式,大胆突破的精神。不愧为日本禅宗艺术大师。 【鹭图】日本室町时代禅宗画家默庵灵渊的佛教绘画作品。画面上在寒冷的风中冷得发抖的鹭,停立在一树枝上。目光似乎是追寻树下湖中的鱼。除了树干、鹭,画中全是空白,但给人以逼真的感觉。世人称其为“牧溪再现”(牧溪,中国南宋画僧)。 【花鸟画】日本室町时代水墨画的早期开拓者雪舟等扬的晚年美术作品,属屏障画。雪舟等扬曾7岁出家为僧,20岁时在京都相国寺向画僧周文学习绘画,48岁时曾到中国学习水墨画技法。此时日本的民族水墨画,处在从花鸟至山水的过渡阶段。不再仅仅局限于寺院,其范围扩大至宫邸及民宅。形式也发生了变化,卷轴画逐渐被屏障画代替。雪舟等扬结合本民族的审美情趣,吸收中国宋元时的绘画技法,形成了富有民族气息和自己个性的画风。《花鸟画》是他晚年的杰作。在画面上,花鸟、树木,飞鸟,栩栩如生,富有情意。显示了作者在山水画创作方面刚柔并用的独到之处,在屏障画装饰风格方面探索出了一条新路。 【暴风雨图】日本16世纪画家雪村的绘画代表作。属水墨画。画面上的小船在暴风雨中与逆风搏斗,体现了人与大自然之间的意境。作者在创作过程中吸取了中国画的长处,运笔雄健有力。 【风涛图】日本16世纪著名画家雪村的代表作,属水墨画。画面上的小船正迎风破浪,奋勇前进。体现出了孤帆与险恶的自然斗争的意境。小船、古树、波纹都刻画得形象生动。 【金碧屏风】日本16世纪画家长谷川等伯的大型连续壁画。画中的枫树,红叶满枝,象征了生命的活力。树下是奇花异草。这幅画兼有彩色画和水墨画的特点,色泽明快,手法独特。这四扇大障子壁画属京都祥云寺的智积院正殿屏风一部分。 【屏风上的松树】日本16世纪长谷川等伯的绘画作品。属水墨画。画中诸松树颀长挺拔,根须裸露在地面上。雪峰朦胧,烟雾茫茫,意境极为深远。枝叶、树干、烟雾等层次分明,着色恰到好处,形象逼真。这幅画既有中国传统水墨画的特点,又有日本绘画装饰风格。现存于东京国立博物馆。 【狮子图】日本安土桃山时代狩野水德早期的幛子壁画。所谓障子壁画,就是日本特殊结构的建筑--滑动拉门《障子》活动屏风上的绘画。在日本安土桃山时代,分格屏障壁画深受茸士阶层欢迎,发展迅速。早期的日本壁画实际上是水墨画的延续和变种。在此过程过程中,狩野永德起了很大的作用。狩野水德(1547年-1590年)是狩野家族第五代画家。曾受到织田信长和丰臣秀吉重用,负责美化安土宫。后期风格华丽,金地艳色常与浓墨的轮廓相结合,为日本的壁画发展奠定了基础。《狮子图》中的两只狮子,是中国历代的吉祥之物,神采奕奕,真实勇猛。作者线条有力,并稍加了晕染,富有夸张感,构图饱满。 【龙虎图】日本安土桃山时代“长谷川画派”创始人长谷川等伯的代表作。长谷川等伯自命为“雪舟第五代”,与狩野家族第五代狩野水德 相抗衡。一方面吸收狩野画风的优点,一面钻研雪舟等扬水墨画的风格,结合中国元明时绘画 特点及西方素描,形成了自己的风格。其画风苍劲有力。由于受到中国画“虚中有实”的影响,他画中的龙腾云驾雾,富有动感。龙须前伸,龙头高扬,龙角后略,看上去似真的一般。这副图是《龙虎图》的右半部,左半部是虎。 【舞乐图】日本16-17世纪著名画家狩野长信的绘画作品。属屏风画。画面上描绘了一位贵族家庭举办樱花节的情景:阳台上,年轻貌美的君侯正兴致勃勃地观看下面的即兴舞蹈。周围是一些侍候的贵妇。画中的主题是舞蹈者。盛开的樱花树下,三个少女戴着头巾,用扇子合着节拍,愉快地跳舞,旁边有一女子击着小鼓。另一个可能是女扮男装的青年人在旁边鼓励、喝彩。画中的花、草、树、木都体现出了狩野派的传统技法风格。背景的色彩暗淡,但人物形象突出,笔锋锐利,线条流畅。 【红白梅图】日本17-18世纪之间的画家尾形光琳的代表作。属屏风纸本彩色画。作厂1710年-1716年间。屏风有两扇,左扇是白梅,右扇是红梅。两棵梅树,花朵的颜色和枝条的曲折大相径庭。作者构思巧妙,用棕色线条表示花纹、曲线、圆卷。形式活泼,线条流畅,技法熟练。富有装饰性,显示出了作家独特的艺术风格。原为津轻孝氏珍藏,后又藏于热海博物馆内,属世界救世教珍藏晶。 【热海美术馆汤女图】日本17世纪美人画。作者不详。这幅画是日本以汤女为题材的绘画作品中最佳之作。汤女,即道德品质不好的在浴池服务的日本女子。画中的汤女打扮得漂亮入时,穿着薄带短袖的和服,显得苗条、华丽。作者将这六个走在街上的汤女刻画得形象生动。 【松岛图】日本17世纪著名画家法桥宗达的绘画。属屏风风景画。分左右两扇。左扇描绘的是海滩与松树。金黄色的海滩,一直伸向遥远的前方。远处,海滩上的松树枝的上端被白色的浪头所掩盖。右扇描绘的大海中的两座岩岛和松树,作者是用绿色、蓝色、棕色进行厂装饰,富有情趣。这对屏风与作者的另-对屏风《春景与冬景》都是其代表作。该画原藏于日本京都祥云寺内。1906年,大收藏家费里亚将其带到美国,现收藏于华盛顿费里亚美术馆。是日本海外藏品中的杰作。 【春景与冬景】日本17世纪有名的画家法桥宗达的绘画作品。属屏风风景画,左扇用一轮新月代表了冬天,画面上的群山被白雪覆盖。山脚下流水清清,激起了许多浪花。右扇用一个圆盘似的太阳代表春天,山顶呈钟形,上面是绿色的松树和开满樱花的樱树。这幅画富有动感,体现出了作者狩野派技法的影响。这对屏风现藏于河内金刚寺和东京国立博物馆。 【关屋章】日本17世纪著名画家法桥宗达的绘画作品。是根据日本第一部长篇爱情小说《源氏物语》中关屋章的内容而作。描绘的是源氏太子与空蝉夫人相见的情景。画中的源氏太子驾着豪华的车,带着随从从右往左向小屋走来。漂亮的空蝉夫人得讯,派她的兄弟以使者的身份拜见太子,并呈献给太子一首诗。画面背景为金色,山峦呈绿色。作者构图巧妙。将源氏太子的活动安排在画中右下角,将空蝉夫人的活动安排在左上方。两边是山峰和房屋,反映出厂作者的绘画技巧。 【牵马图】日本17-18世纪画家英一蝶的早年绘画作品。作品中的青年农民在晨雾中拼命地牵马,马儿却因胆怯不肯上桥板。岸边垂柳依依,太阳露出了半个脸。整个画面显得简洁明了。 【松】即《雪松图》。作者是日本18世纪写实主义画派圆山--四条派的代表人物圆山应举。该画作于1765年,背景为淡金色,素白的绢底上,树下、地上皆有积雪。作者用极快的笔道画出厂松针,并用烘于的墨点表明了树干和树枝。使图中的雪轻柔、温新。达到了抒情和象征的效果。 【溪流花木图】日本江户时代的画家法桥宗达的美术作品。法桥宗达早年因受家庭环境的影响,对图案画兴趣甚浓。后以开画铺谋生,叫“表屋”,故又称他“表屋宗达”。他对日本装饰风民族绘画影响很大,曾和弟子一起为社会各阶层作扇面画、方块画、民俗画。在此过程中.渐形成了符合日本民族审美情趣的画风,并受到各阶层的注目。其金碧屏风画深受日本人喜爱。创“法桥派”。代表作《溪流花木图》,画面效果良好。景物真实,空间深运,虚实对比明显。在同一平面上同时描绘了山水树木.体现出了景物的自然荧。溪流横贯东西,树木上下笔直,花草各异,遍地皆是。色泽清雅,运笔熟练,富有诗情,体现出了大和民族的精神。 【松竹汇鹤图】日本江户时代浪漫画家尾形光琳早期代表作之一。其父艺术修养很高,因此小时候受到家庭环境熏陶。青年时学习狩野派绘画技巧,曾在白瓷上练习工笔花鸟画法。其父去世后,替父经商,结果破产,转而弃商专画。终有所成,与狩野派相匹敌,与法桥宗达画风相近,所以后又并称“法桥一光琳派”。但法桥宗达的画气势胜,光琳的画秀丽爽朗,充满了民族气息,而且在他追求装饰风的过程中,他的画抽象因素渐增,曲线和圆弧多样化,具有明显的运动感和节奏感。在日本绘画史上其装饰风画面多抽象因素。这幅画仍有其青年时的传统基本功法,具有很强的写实性。画中有竹林与仙鹤,环境清秀明媚,鹤体婷婷玉立,用笔工整,用色淡雅,整个画面严谨和谐。是一幅写实中富有装饰色彩的画。 【庭院男女】日本江户时代浮世绘版画早期代表人物菱川师宣的代表作。“浮世绘”是由传统的“大和绘”演化而来。主要表现的是市民日常生活和风情民俗。后来,由于中产阶级发展,浮世绘中表现男女私情和美人的题材渐多。由于社会需求量增加,许多画家开始刻版印刷,“浮世绘版画”便出现了。菱川师宣是这些画家中成就较高的一位。而且从他开始,浮世绘版画才开始署名。这幅画的背景是一幽静的庭院。庭院一角,一对青年男女偷偷拥抱接吻。这在当时是违背社会风俗的。而画中男女私情的公开表露,则体现了作者的艺术追求。线条流利,圆润。很容易引起观者的共鸣。 【过桥】日本江户时代浮世绘版画中最有影响的画家铃木春信的代表作。浮世绘版画从墨折绘、丹绘、红绘,红折绘发展到锦绘,工艺技术日臻成熟,过去画面上的红暖色凋已逐渐被组合在一起的各类冷暖色彩所代替。因此具有繁花似锦之感。铃木春信作品题材广泛,有市民姑娘,武士侍女,作品中的女性腰肢细瘦,手脚纤细,体态轻盈。在红折绘到锦绘的发展过程中,他做出了巨大的贡献。因此,他被认为是浮世绘版画史中具有里程碑式的人物。他的作品吸收了中国明清“拱花”水印技巧,创造出了“春信式”的画风,往往在作品的某个区域可看到带有浮雕感的凸凹痕迹。他的代表作《过桥》描绘的是两位劳动妇女,来到了离家门不远的桥边,为了不让池塘水溅湿衣衫,一位妇女弯腰挽裤,另一位妇女也一边望着池塘与身边的女友,呈弯腰状。 【风雨之夜】日本首创套色木刻并以画美人画而闻名的浮世绘画家铃木春信的代表作。版画中,作者用提灯暗示了黑暗,用破伞暗示了暴风雨的猛烈。在暴风雨之夜到神社去的少女,许是祈祷爱情的到来,许是诅咒情敌,发泄其内心的不满。从构图到色显,和谐而神秘。 【神亲川巨浪图】日本江户时代的画家葛饰北斋的晚年杰作《富士三十六景》中的代表作之-。葛饰北斋早年随父学雕刻,后结合日本传统画派的画风,勇于学习西方绘画技巧。其作品范围极广,有肖像画、美人画、山水画、花鸟画、插图等。在《神奈川巨浪图》中,他把日本民族的象征富士山刻画得雄伟壮丽,前景方神奈川九级大浪,长年积雪的富士山被推到远处。巨浪澎湃,浪花飞溅,海水清澈,万里无云。除了浪峰,进入观者视线的便是富士山了。充分体现了作者多角度、重全面的绘画技巧。 【针线活】日本江户时代以画美入画而著称的画家喜多川歌磨的代表作。作于宽政五年(1793年),原保存于日本东京国立博物馆。画中四女人,形态各异。一位梳着高高的发鬓,正和另一女子扯一块印花布料。旁边一女子一手托竹笼,一手从笼门伸进,似在逗引笼中彩蝶。另一女子用脚支着镜架,正与一花猫戏闹。画家在处理面部时采用了“大首绘”的方式。衣纹线条流畅,刻画人物形象生动、逼真。 【雄鸡和仙人掌】日本18世纪画家伊藤若冲的代表作。属障子壁画。现存于大阪西福寺内。计2幅。右边一扇画面上的鸡一边走一边往后看,鸡毛色泽鲜艳。左边一扇画面的鸡静静地站在那里,表情怡然自得,色彩绚丽,并用具有异国情调的仙人掌作陪衬。表现出了作者在画鸡方面的造诣。 【金地屏风风景】日本18世纪画家池野大雅的杰作。属山水风景画。绘制于一对屏风的正反两面。背景为金黄色,故得此名。一面屏风画有几位隐士围坐在一亭子里。另一面屏风画有波涛汹涌的大河,一条载着赴会考学的人的船正迎面而来。这幅画受到了中国传统风景画的影响。用笔简单,轮廓分明。现存于日本东京国立博物馆。 【保津川图】日本18世纪著名画家圆山应举死前遗世之作。由八条屏障画组成,现京都私人收藏。作者圆山应举,属“圆山一四条派”代表人物。17岁时,到京都向狩野派画家后田幽汀学习绘画,并受到中国画家钱选(舜举)的影响。画面上的瀑布顺着悬崖飞流而下,流水拍打着堤岸,浪花飞溅,两棵松树亭亭玉立。显得动中有静,静中有动。作者用几组柔和的曲线代表流水,线条蓝白相间,有疏有密,突出的几处岩石,激起了无数的水珠。作者用南画斧劈皴法处理石面,并对松树的树枝和树枝并重勾勒。反映了作者敏锐的观察力。 【富土山三十六景】日本浮世绘代表人物葛饰北斋的版画杰作。创作于1825年-1831年。第一期作品主要有《红色富土山》、《暴风雨及雷电下的富士》、《波涛外见富士》等。其中《红色富士山》一面中,天空呈蔚蓝色,薄云缕缕,山峰神奇。景色逼真,构图简单。《波涛外见富士》一画中,波涛汹涌,富士山则在更远处。几个人物虽属点缀,但不失真实之感。整套版画,虽然题名《富士山三十六景》,但实际上有46景。葛饰北斋在绘画的过程中,低角度视点,打破了传统的日本技法,取得了良好的效果。 【东海道五十三次驿站】日本19世纪著名的浮世绘画家安滕广重的版画作品之一。创作于1833年。画面上表现了在风光明美的东海道上,五十三次驿站将京都和江户连接了起来。画中的山坡屋顶、竹子、雨点等皆用倾斜交叉的线条来表示。整个画面显得色调暗淡,但富有诗情画意。 【悲母观音图】日本近代画家狩野芳崖的绝笔之作。作于1888年。作品中的悲母观音是以东方观音为模特,结合西方的圣母形象,最后形成了日本的悲母观音。画中悲母观音立于云端,左手倒宝瓶水,里面是赤婴即将诞生。赤婴也是结合了中西形象的产物,右手举着杨枝。云端处,水化为圆球,云端下,峰峦叠嶂。 【谜儿图】日本近代画家横山大观的佛教绘画作品。图中人物从左到右依次是孔子、耶稣,释迦牟尼、老子。表现出了作者释、道、儒、耶合而为一的思想。作者还突破了以往绘画的局限性,大胆采用了“朦胧体”(即无线色彩)。立在释迦牟尼前的小孩即谜儿,是横山大观的自我象征。 【正仓院乐器装饰画】正仓院是日本古都奈良东大寺收藏宝物、文物的仓库。里面收藏了许多圣武天皇的遗物。其中有两件装饰精致的乐器琵琶和阮咸,上面图画非常有特色。琵琶拔面上绘有骑象鼓乐图和骑猪酒宴图,阮咸上的拔面绘有松下围棋图和弹奏阮咸图。这幅画受到了中国古代油彩画法的影响。表达随意,没有固定程式,虽属生活内空,但富有装饰性。是日本美术作品中的佳作。 【郁的爱情】日本浮世绘三大师之一喜多川哥磨的版画组画《爱情的诗》之一。作者用纯图画的方式表达出了全部的爱情心理。画面上的黄色背景象征着油灯的光辉,一个女人正在沉思,唇上和衣袖上可看到红点,双眼半睁半闭,似乎是热烈之中又有点懊悔。色彩柔和,充满了神秘感。 【雉香炉】日本国宝,珍藏于日本三大名园(水户的偕乐园、冈山的后乐园)之一的兼大园内的县立美术馆内。是日本有名的画家野村山村的色彩画代表作。 【扇面写经】日本藤原时代的美术作品。现存于四天王寺。上面描绘的是一公卿手拿盛开的折枝樱花,与旁边掀帘入室的贵女子交谈的情景。另一面是几个妇女集结在落叶树下水井旁劳动的场面,将自然景色与人物生活场面相结合,并在上面写有一节《法华经》经文,文字优美。 【初上画面】日本现代画家竹内栖凤的美入画。作于1913年。画面上表现的是一个第一次为画家作模特的少女,背靠一屏风,左手抬起遮挡面部。右手紧紧攥住和服。双眸妖媚,神色紧张,双眉皱起,双肩紧缩,身体稍微向右倾。刻划出了少女羞涩而又紧张的心理。黑衣和服上带有兰、黄、灰等色点,又隐隐透出了“s”形的色块,即衬托了身体的白皙,又揭示了某种忐忑不安的神秘色彩。 【芳惠】日本19-20世纪之间的画家藤岛武二的绘画作品。属油画,创作于1926年。描绘的是一个漂亮的妇女。身上穿的是中国绣花的大红旗袍,头戴中国西南一带少数民族的绣花头巾,耳朵上戴着紫红色的耳坠子,右手拿着一枝花。具有古典的东方美。整个人物形象清秀优雅,构思巧妙。 【阿修罗图】日本现代画家前田青屯的佛教绘画。作于1940年。作品中的古印度佛教护法神阿修罗,三头六臂,怒目、持刀,显得强健勇猛。反映出了作者丰富的想象,使得整个绘画富有装饰性及现代感,除了少量的红色外,作者全用白描手法。 建筑类 【法隆寺】日本古寺。位于奈良县西北生驹郡斑鸠町。圣德太子于推古天皇15年(607年)创建。主要建筑有中门、金堂、五重塔、大讲堂、大宝藏殿,梦殿等。中门为白凤时代建筑。金堂内供有日本最古老的佛像药师如来像和三尊释迦铜像。四周是诸佛净土图、飞天等壁画。五重塔是日本最古老的佛塔,塔内有斑鸠时代的涅盘图等塑像。大宝藏殿分南,北仓两部分,内有来自百济的百济观音、梦违观音和圣德太子像等国宝。梦殿是日本最古的八角形建筑,殿内有救世观音立像。 【广隆寺】日本名寺。又称“太秦寺”。位于日本京都右京区太秦峰冈町。始建于公元622年,后遭火焚,1165年又陆续修复。寺内有许多国宝。如阿弥陀如来坐像、干手观音立像等供奉在寺中讲堂内。弥勒菩萨半跏思维像供奉在灵宝殿内,是日本第一号国宝。木造圣德太子半跏像供奉在上宫王院内。还有建于镰仓时代的桂宫院,是八角形圆堂,也是日本国宝。堂前还有太秦形作品石灯笼。 【善光寺】日本名寺。位于长野市中心。据说是为了珍存从百济献来的一光三尊金铜阿弥陀如来像于皇极元年(642年)创此寺。后遭火焚,后又重建。主要建筑物有山门、金堂(iE殿)、经堂、钟楼、忠灵殿等。山门建于宽延3年(1750年),宽约20米,进深7米。金堂重建于宝永4年(1707年),殿高28米,宽32米,进深52米,是日本最大的木造建筑之一。1952年被定为国宝。殿内供奉着主佛一光三尊金铜阿弥陀如来像及泰国捐赠的释迦佛。殿东还有川中岛古战场的一部分。 【浅草寺】日本东京最古老的寺院。位于东京浅草中心。又称“金龙山浅草寺”。始建于大化6年(645年)。据传在推古天皇36年(628年),日本两个渔民兄弟桧前滨成和桧前竹成在宫户川(今隅田川下游)捕鱼时,捞到了一尊高5.5厘米的金观音像,后来有个叫土师直中知的人得知此事,认为是“观音显灵”,并把这尊金观音像供奉于自己家中。后又供奉于浅草寺。该寺主要建筑物有雷门、浅草寺正殿、六角堂、五重塔、浅草神社等。雷门又称“风雷神门”,因门两侧立有风神和雷神巨像,故得此名。浅草寺正门,黑瓦覆顶,有八根红色大柱,门中央悬挂一写有“雷门”二字、直径约3米的大灯笼。雷门内的参拜道路,又名“仲见世路”,长约140米。路两旁有86家小店铺。在日语中,“见世”意为“店”。因此,每家店铺都悬挂一方型玻璃灯,上面写着“仲见世”。店铺中的许多商品都是江户时代的特产。浅草寺正殿里供奉着那尊打捞上来的金观音像。殿外天井上有著名画家川端龙子和堂本印象画的《龙之图》、《天人之图》、《散华之图》。正殿前的宝藏门,因楼内藏有国宝(纸本墨书法华经)而得此名,原名仁王门。门角堂是一木造六角形建筑物,属室町时代建筑。位于浅草寺正殿左面。是日本的重要的美术作品。单层,瓦顶,中央直径1.82米。五重塔是仅次于京都东寺五重塔的全国第二高塔,高53米,于1974年重建,位于浅草寺西南。浅草神社属日本江户时代的建筑物,神社内供有渔民桧前滨成、桧前竹成和村长土师直中知及德川家康像,被视为浅草寺观音堂的“守护之神”。浅草寺内建筑物还有浅岛堂、弁天山钟楼、六地藏石幢、传法院等。另外还有许多两佛板碑、歌碑、句碑、纪念碑等石碑。 【药师寺】日本古寺。位于奈良市西之京町。始建于天武天皇8年(680年)。718年,又从飞鸟迁到奈良。主要建筑有三重塔(东塔)、金堂、讲堂、东院堂。三重塔是药师寺迁至奈良后遭火灾遗留下来的唯一建筑,高33.8米。被视为日本最美丽的佛塔,也是日本国宝。金堂、讲堂、东院堂于镰仓时代和江户时代重建。金堂内供有三尊青铜铸造的佛像,主佛药师如来和侍奉左右的日光菩萨和月光菩萨,是日本国宝。药师如来佛台座有铜造的裸形邪鬼,高1.5米,台座四周是青龙、白虎、玄武、朱雀四神图,并饰以葡萄蔓草等花纹。讲堂的佛足堂内有佛足石和歌颂佛足石的碑铭。佛足石上有据说是从印度、中国传来的释迦牟尼的足迹。东院堂内有白凤时代的美术作品圣观音立像,是日本国宝。寺内还有天平时代的绘画。如吉祥天画像和慈恩大师像、僧形八幡坐像等,也是日本国宝。 【正仓院】本国宝。位于日本奈良东大寺大殿西北。是有名的东洋古美术宝库。始建于702年。原是东大寺的仓库,专门收藏皇家粮食,天平胜宝8年(756年)圣武天皇忌日,光明皇后将圣武天皇用过的家具及东大寺大佛开光仪式时用过的佛具、古文书等一并收藏其中。后来,正仓院就渐渐成为收集日本奈良时代的美术工艺珍品的专门。其中收藏的许多文物都具有浓厚的中国唐代亚、波斯的风格。有些是由日本遣唐使、僧直接从中国带去的。其构造采用了日本古代独特的建筑法--校仓法。因此,正仓院也是日本最早最大的“枪仓造”建筑物。其结构全部属木结构,面宽33米,进深9米,高12米,从左往右依次为北仓、中仓、南仓,屋顶覆以砖瓦,呈四注式。正面和墙两侧是用木材横叠而成,木材为三角形切面,墙壁为木造井字形,屋基高高架起,离地面3米高,四面透空,人可以从下面通行。到目前为止,正仓院共收藏文物约17万件。许多文物都是从中国的丝绸之路在唐朝时传入日本,又从印度、西亚传出去的。因此,日本人又称之为“丝绸之路在东方的终点”。内藏珍贵文物有东大寺佛光开眼时,曾使用过的一枝长1.8尺的“天平古笔”和唐开元四年(716年)制造的一块石墨。另外,还有中国东晋时的大书法家王羲之、王献之的亲笔书法,唐朝初朝书法家欧阳询书写的真迹屏风及唐玄宗写给日本圣武天皇的信,唐朝时输入日本的珍贵文物,日本工匠的仿制品。如“金银干文琴、螺钿紫檀五弦琵琶、银脱漆胡瓶”等,这些文物在明治后期均由皇室保管,太平洋战争后,被作为国家财产由日本==管理。1953年、1963年又在正仓院旧库西南新建两幢钢筋水泥新仓库,一些文物被移入新仓库内保管。正仓院平时不开放,只在每年秋季10月上旬至11月上旬时,拿出来一部分文物在日本奈良国立博物馆展出。供人参观。 【大寺】古代佛教寺院。又称金光明四天王护国寺、大华严寺、城大寺、总分国寺。与日本兴福寺井称为南部奈良两大名寺。位于平城京之东杂司町,故名东大寺。741年,圣武天皇下诏书令仿中国寺院建筑风格兴建该寺,寺建成后,1180年、1567年两次遭兵火,后经多次修缮。东大寺坐北向南,主要建筑物有南大门、纪时又进行了重修。佛高16.21米,莲花铜座高3.335米,重452吨,是仅次于中国西藏扎什伦布寺的“未来佛”。卢舍那大佛盘坐于莲花之上,左手放在膝卜,右手半举在胸前。和金堂均为日本国宝。大佛殿前的“金铜八甬灯笼”是天平时代遗存的珍贵文物,高4.62米。钟楼建于镰仓时代,具有天竺建筑风格,内有梵钟,为日本国宝。铸造干752年,高3.6米,口径2.74米,重26.3吨,是日本最大、最重的钟。戒坛院内有戒坛,是754年中国唐代高僧在该殿向圣武天皇、孝谦天皇及诸僧侣讲授戒律的地方。正仓院建厂天平年代早期,为日本国宝。属木质较仓结构,屋顶为四阿式,内部分北仓、南仓、中仓三部分。院内珍藏有孝武天皇生前用过的服饰、日常生活用品、《东大寺要录》、《东大寺献物帐》、东大寺开光作佛事时用过的衣物、武器、乐器、伎乐面(假面)及来自波斯、西域的舶来品和一些珍贵的古文书、古写经等。其他建筑物还有:月堂、三月堂、四月堂、开山堂、法华堂等。每五月五日逢圣武天皇忌日,东大寺金堂前都要举行“圣武祭”以告慰圣武天皇之灵。 【招提寺】南本南都七大寺之一。简称“招提寺”。位于奈良西京五条町。始建于759年(天平宝字三年),至770年完工,整个建筑深受中国盛唐建筑风格影响。主要建筑物有金坛、讲堂、戒坛、鼓楼,礼堂、开山堂等。寺门高大,上有孝谦女皇亲笔题写的“唐招提寺”四个红色大字,具有中国东晋王羲之、王献之的书法遗风。金堂为寺中主殿,由中国唐代高僧鉴真弟子如宝主持建造,向南,面阔七间,进深四间,单檐庑殿顶,石台基高1米,八根廊柱并列在台基上。柱头的斗拱飞檐,深受中国唐代木结构的影响。金堂内供有金色卢舍那大佛,据传是鉴真弟子义静(一说思托)设计,由闩本技工雕塑而成。坐像高3.7米,是日本奈良时代特有的脱干漆像。佛像西侧为四手观音佛像,高5.36米;东侧为药师如宋立像,高2.03米。均为夹(宁像,三尊佛像和金堂被指定为国宝。三尊佛像前有梵天,帝释天两尊小像和4尊天王木雕像、大日如来木雕佛像。讲堂原是8世纪初平城宫中的朝堂由于皇家礼佛,为了祈佛,建寺时遂将该朝堂施舍迁入寺内。这是平城宫中现存唯一的建筑,面阔九间,单檐歇山顶,讲堂内供有一尊涂漆加色的弥勒如来佛像,高2.8米,为日本国宝。佛像两侧有两个轿子似的亭子,据说是当年鉴真师徒讲经说法之地。讲堂庭院中的藏经室,收藏有鉴真从中国带去的佛教经卷。鼓楼为上下两层的楼阁式建筑,有平台环绕。礼堂为长方形建筑,有19间。开山堂又称开山御景堂,建于1688年,堂内供有鉴真和尚干漆夹泞坐像,高2.7尺,为日本国宝。据说是由鉴真弟子按鉴真生前坐禅时的姿态雕塑而成。鉴真闭目微笑,双手拱合,形象逼真,不愧为日本雕塑杰作。御影堂前有鉴真墓。每年6月6日逢鉴真圆寂之日(763年)前后,该堂开放三天,以供人们瞻仰。唐招提寺是中日两国人民友谊的见证物,也是中日两国文化交流的产物,因此被日本==指定为国宝。 【水寺】本古寺。位于日本京都东山腰。是日本桓武天皇的本院寺。始建于奈良时代后期宝龟11年(780年),由唐僧第一弟子慈恩大师创建。后遭火焚,1633年重建。寺内主要建筑有正殿(本堂)、钟楼、三重塔、经堂等。正殿重建于宽永10年(1633年)。是日本国宝级文物。寺内还有16栋建筑也是国宝重点文物。另外还有30多幅信众奉献的绘画匾额,也是日本重点文物。 【醍醐寺】日本古寺,位于京都伏见。创建于贞观16年(784年)。后遭兵焚,丰臣秀吉重建。主要建筑有三宝院、灵宝馆。三宝院是桃山时代书院式建筑,房内墙壁及隔扇上有江户时代名画家石田幽汀和狩野山乐的彩色障壁画。该院庭园为丰臣秀吉设计。灵院馆内珍藏的绢本着色五大尊佛、绢本着色文殊渡海图均为日本国宝。寺内五重塔是京都最古老的建筑,建于952年,为日奉国宝。塔内一层的圆柱和墙上描有金胎的曼荼罗诸佛及真言八祖像,均为日本平安时代的珍贵文物。清宫拜殿及药师堂也是日本国宝。药师堂是藤原时代的建筑物。建于1124年,堂内药师如来像及日光、月光两胁金堂(大佛殿)、钟楼、戒坛院、正仓院等。南大门为东大寺寺院正门,建于镰仓时代,1199年又重建。有18根长约30、直径约l米的木柱,具有天竺风格。金堂是世界上最大、最高的木结构大殿,始建于752年,于1708年重建,东西长57米,南北长50米,高46米,1903年一1911年,1974年一1980年又进行了两次大规模的整修。堂内供奉的卢舍那铜铸大佛,始铸于747年,至752年完工。后因地震和兵火受损,17世侍像均为国宝。寺中建筑物还有五大堂、如意轮堂、开山堂和上醍醐陵等。 【延力寺】日本名寺,位于日本京都府和滋县之间的比叡山(又称叡山)上。始建于公元785年,后遭火焚,德川幕府将军德川家康及德川家光又重建。寺中主要建筑物有根本中堂、大讲堂、戒檀院、阿弥陀堂、释迦堂、相轮木堂、椿堂、琉璃堂等。均为重要遗迹,根本堂中供有如来佛,为日本国宝。堂内柽柳木据传是从中国的五台山带来,是珍贵文物。 【善通寺】日本古寺。位于香川县善通寺市。是弘法大师(空海)诞生地,始建于弘仁四年(813年)。后遭火焚又重建。主要建筑物有金堂、常行堂、五重大塔、御影堂、宝物馆等。寺内藏有地藏菩萨像、吉祥天立像和具有唐朝风格的写经《一字一佛法华经序品》等。均为日本重要文物。 【东寺】日本古寺,又称“救王护国寺”。位于京都市南区。弘仁14年(公元823年)嵯峨天皇将此寺赐予从中国回来的弘法大师(空海)。寺内主要建筑有讲堂、御影堂、南大门、金堂五重塔、灌顶院等。御影堂建于南北朝时代,1380年重建,内有空海从中国归来时带回的本尊秘佛不动明王坐像。讲堂建于室町时代,内有金刚界大日如来像。五重塔建于江户时代,是日本第一高塔,高56.4米,于1644年重建,是日本国宝。寺内还有珍贵的雕刻、绘画、书法、工艺等文物。如从中国传来的兜跋毗沙门像、空海从中国带回的七幅真言七祖像等。东寺也因此成了日本宗教美术宝库之一。 【清水寺本堂】日本国宝。清水寺位于日本京都东山,以舞台而闻名全国。9世纪初,曾作为桓武天皇的御愿寺,后又作为护国道场。1633年,幕府将军德川家光重建堂塔。该寺主要建筑物有本堂、三重塔、经堂、开堂等。其中本堂被定为国宝。该堂依山而建,属木结构建筑,有139根粗木柱支撑。殿宽9间,纵深?间,是一个带有翼廊的单檐殿堂,殿顶全部覆以桧树皮,前半部凌空的平台即日本有名的“清水寺舞台”。日本成语“成败在此一举”或“义无反顾”即与此相关。 【清水寺正殿】日本国宝。清水寺位于日本京都东山山腰,是桓武天皇的奉院寺,现存清水寺为1633年重建。其正殿(本堂)于宽永10年(1633年)由德川幕府将军德川家光重建。殿宽19米,进深16米,殿顶铺有几层宝珠形的桧树皮瓦,殿前有139根大圆木组成了一个“舞台”,殿旁有一眼清泉,被称为“金水”。殿后有成就园,是江户时代初期的庭园代表作品。 【中尊寺金色堂】日本藤原时代奥州一带的统领藤原清衡之妻干氏在中尊寺主要堂塔西北角建于1124年的一座常行堂。在藤原清衡死后,平氏又将常行堂涂上金色作为藤原清衡的祠庙之所。殿堂内有藤原三代的木乃伊遗骸,须弥座上有须弥三尊像和二天之外的六体地藏菩萨立像。表现出了藤原清衡及其妻平氏期望地藏菩萨来迎的心愿。同时也反映了其妻超度平素不念经、临终亦不念经,最后战死土沙场的武土们。企图他们的灵魂在十字路口卸左重罪,与藤原清衡的亡灵一起从六道走向极乐世界。 【三十三间堂】日本莲华王院正殿。位于京都市东山区妙法院前町。建于平安时代末期长宽2年(公元1164年)。为白河法皇的御所。13世纪中叶遭火焚。镰仓时代文永3年(1266年)重建。该堂深17米,南北长120米,是日本最长的殿堂。堂内每隔3 5米立有l柱,计34根柱子,殿堂被分割成33间,故名。堂内正中供有一尊木造11面千手干眼观音坐像,高约3.3米。左右两侧各有500尊高约1.7米的金龟观音坐像。主佛后面及走廊两端有木造28部天神像和风、雷等神立像。该堂被定为日本国宝。 【平等院凤凰堂】日本国宝。位于日本京都宇治市平等院内。平等院原为别墅,平安年代,藤原赖通将其改为寺院。主要建筑物有中堂、观音阁、钟楼、净土院、最胜院及宝物馆。凤凰堂即原来的阿弥陀堂,因里面供有一尊阿弥陀如来像而得名。其中堂正脊两端鸱尾部,用一对青铜制成的凤凰装饰,凤凰高约1米,正展翅欲飞。中堂为木造瓦葺,单层歇山顶,正面三间,侧面两间,左右翼廊各五间,凤凰堂因此而得名。显得整个结构浑然一体,华而不俗,达到了一种西方极乐净土世界的境界。中堂内的阿弥陀如来坐像,是天喜元年(1053年)3月,由著名的雕刻家定朝精心雕制而成,高约3米,是定朝现存唯一作品。这件雕刻品具有典型的“大和风格”,佛头发细密,眼睛较长,鼻子高高隆起,肩部丰满圆润,背面以金刚界大日如来为中心,配有十二光佛,显得佛温和、典雅。中堂门扉上绘制的“九品来迎图”为日本国宝,是凤凰堂重要的美术作品。描绘的是观音、菩萨率领众人前来迎接即将进入天堂的人们,上面的山水树木刻画得栩栩如生。中堂的墙壁上,还雕刻有五一躯“云中供养菩萨像”,众菩萨千姿百态。由于中堂集绘画、雕刻、工艺美术等为一体,所以凤凰堂被定为国宝。 【姬路城】日本国宝。位于兵库县姬路市姬山上。由于城墙和城楼城为白色,形似白鹭,隐没在山林中。故又称“白鹭城”。该城创建于元弘3年(1333年)。天正8年(1580年)又建成三层城楼--天守阁。庆长6年(1601年)池田辉政又改建了天守阁和护城河。1956年一1964年又照原样对其中的一部分进行了修复。天守阁外观五层,内部六层,地下一层,实为七层。城墙由石块砌成,墙上和楼门为了战事防备设计留有射击孔。城内还有干姬化装楼、媪之石、菊井等名胜古迹。 【兴福寺】日本古寺。位于奈良市登大路町。主要建筑有三重塔、北圆堂、东金堂、五重塔,中金堂、南圆堂。五重塔建于室町时代,是日本第二高塔,仅次午京都东寺五重塔。东金堂建于室町时代,堂内供有日本国宝文殊菩萨像。北圆堂是寺内最古老的建筑,南圆堂与之相对应。寺内还建有国宝馆,馆存珍藏有奈良时代至江尸时代的珍贵文物。如释迦牟尼十大弟子立像、八部.众立像、四天王立像、金刚力士立像、世亲菩萨立像、佛头等,都是日本国宝。 【银阁】日本国宝。位于日本京都左京区银阁寺(丛徽寺)中,银阁寺原为室町时代建筑物,由幕府将军足利义政仿北山金阁寺造型于东山营建的山庄--东山殿。在工程竣工前足利义政不幸去世,后由梦窗踪石国师建成。由于原来计划在屋宇外壁镶银箔未实施,其楼阁只涂了漆没有镶装银箔,故改名为丛徽寺,俗称银阁寺。主要建筑物银阁和东求堂均为国宝。银阁是有名的佛寺和住宅相结合的书院式建筑,是二层楼阁。一层心空殿,是模仿西芳寺的舍利殿建造而成。二层潮音阁,内供奉观音像。银阁、东求堂与锦钟池组成的庭园,也是室町时代中期的代表作。园内向月台和银沙滩,与中国的西湖风景相仿,不愧为赏月佳地。 【松本城】日本古城廓。位于长野县中部松本市。是日本桃山时代城廓建筑的杰作。始建于文禄3年(1594年)。主要建筑物有高五层的天守阁,二重望楼和月见望楼等。楼上入口处有日本民俗资料馆,馆内有许多考古、历史、风俗等方面的重要资料。楼上窗户极少,多留有射孔处,是为了适应当时的城防需要而如此设计.1952年,日本==将此城定为国宝。 【羽黑山五重塔】日本国宝。现存于日本磐梯朝日国立公园内。位于园内出羽三山山下杉林中。建于庆长年间(1596-1615年)。 【东本愿寺】日本名寺。位于日本京都市下京区。其正殿建于1602年,堂内供有阿弥陀如来像。大师堂(即大雄宝殿)建于1658年,后因火灾于1895年重建,长76米,宽58米,高38米,堂内供有本愿寺开山祖亲鸾圣人像。大师堂是京都最大的木造建筑,仅决于奈良的东大寺。 【二条城】日本著名的古城堡。位于京都市中京区二条街。始建于1603年,初为幕府将军德川家康在京都的住所,后德川家光加以扩建,并把伏见城的建筑物移到此处。1867年,德川幕府将军德川庆喜在此将政权归还天皇,即日本历史上的“大政奉还”。整个城堡建筑面积为2.3万平方米,四周有东西长500米、南北长300米的护城河。主要建筑物有唐门,“二之丸”御殿、本丸等。唐门状如大牌坊,具有中国唐代长安城的建筑风格,属木结构,上面有无数雕刻,中间是涂有金色的皇族菊徽,两边是一对猛虎、翔风。“二之丸”御殿原为将军家宅,后因德川家光女婿后水尾天皇拟临幸二条城,于是就将“二之丸”改为御殿。这是日本桃山时代的大书院式建筑,为日本国宝。“二之丸”庭园是池泉回游式,池中有蓬莱岛。本丸为二条城正殿,1788年遭火灾,现存建筑为京都御所迁来的旧桂宫御殿,明治天皇临幸时,又将其改为离宫。昭和14年(1939年)京都市接交管理二条城。 【瑞岩寺】日本国宝。位于日本著名三名之一松岛海岸边。始建于桃山时代,庆长14年(1609年),由仙台藩组伊达政宗重建。其正殿宽211间,进深14间,殿内有绘画、雕刻等。庭园内有伊达政宗从朝鲜带回来的古老梅树--卧龙人梅和为日光东照宫试作的铁灯笼。 【二之丸御殿】日本桃山时代典型的大书院式建筑。位于京都市中京区二条城城中央。原为德川幕府将军德川家康私人住宅,后因德川家光女婿后水尾天皇拟以临幸二条城而改为御殿。内有大广间(寝室)、黑书院、白书院等建筑,共有33间。房间内的隔扇门和墙上都有江户时代狩野派画家创作的障壁画。大广间长廊的地板在走人时会发出茑鸣似的声音,所以又被称为“响廊”。二之丸庭园为池泉回游式庭园,池中有蓬莱岛,左右有鹤、龟两岛。 【名古屋城】日本古城堡。位于名古屋市中区。始建于庆长15年(1610年)。由日本幕府将军德川家康及其后代修建。二战遭火焚,仅存东南、西南、西北三座角楼及前二门。1959年重建。天守阁为其主要建筑。屋脊两端是鲤鱼型的装饰--金蜞鳅分雌雄两种,北侧为雄金鲯鳅,高2.62米,南侧为雌蜞鳅,高2.58米。外观天守阁为五层,实为七层,一层至六层有文物图片展览,有名古屋建造前后的历史,古城堡剩余的600件壁画和日本其他城堡的图片。 【鹤冈八幡宫】日本镰仓五大名寺之一。位于神奈川县镰仓。主要建筑物有“太鼓桥”(弓桥)、神奈川县立近代美术馆、镰仓国宝馆、舞殿、正殿、若宫等。“太鼓桥”为八幡宫标志。神奈川县立近代美术馆建于1951年,馆内收藏有日本油画、日本画、版画、雕刻、素描画等1400多件。镰仓国宝馆建于1928年,馆内收藏有寿福寺的木造地藏菩萨立像,建长寺的释迦三尊像和本宫木造弁才天坐像等重要文物。正殿建于1828年,四周的宝物殿内,收藏有日本国宝正恒铭太刀。若宫建于1624年,里面供有仁德天皇及其他四位神抵。 【崇福寺】日本国家重点文物。又称圣寿山崇福寺,位于长崎市锻治屋町。由来自中国福建的高僧超然始建,后住在长崎的福建华侨又集资于宽永6年(1629年)创建。寺中专供海神嫣祖。寺中主要建筑物有楼门(龙宫门),第一峰门、大雄宝殿、护法堂、钟鼓楼等,楼门上的横匾“圣寿山”为隐元所书。楼门和第一峰门均为日本国宝。大雄宝殿、护法堂、钟鼓楼承袭了中国南京寺庙的建筑风格。寺中还有一口铸造于1682年长崎大饥荒时的大铁锅,重1965斤,据说可煮米4石2斗,供3000人食用。每年逢旧历7月26日,日本国内华侨都集聚于寺中,举行中国传统节日盂兰盆会节。 【眼镜桥】位于日本长崎中岛川上。是一座中国式双孔石拱桥。建于1634年,由中国明代高僧如定禅师主持。桥长约23米,宽约4.5米,高约5.3米,如一副眼镜架于中岛川上,故名。是中日友好交往的历史见证物之一。 【万福寺】日本古寺。位于京都市宇治川旁醍醐山麓。始建于1663年;由中国明代高僧隐元禅师主持兴建。具有明朝禅寺风格。山门横匾上的“万福寺”三字乃隐元禅师书。主要建筑有山门、天王殿、奉堂(大雄宝殿)、法堂等。天王殿内供有阿弥陀佛坐像,两旁是四大金刚。大雄宝殿内供有三尊如来像,两边是十八罗汉木像。寺内收藏有隐元禅师及其弟子木庵、即非等所遗留的44幅匾额、56幅对联,书法风格各具特色,用笔迥劲有力,兼有篆隶行草。另外还收藏有铁眼禅师的木刻经版6万张,近7万卷佛教经典和江户时代有名的画家池大雅的名作。这些都是重要文物。 【神厩舍】古代养马的地方。位于日本日光东照宫第一层院内。属木结构建筑。整个建筑未上油漆,所以显得古朴典雅。里面有供下人住的配房。该舍最引人入目的便是廊檐下雕刻的三只栩栩如生的猿猴,在日本、有许多人遵循三猿主义(非礼勿说,非礼未闻,非礼勿看)的人生哲学。所以这三只恣态和形象不同的猿猴,身上着色也截然分明;白脸、白胸、红眼、褐毛,四周雕刻有古树和花朵。位于正中的猿猴两腿盘坐,大眼圆睁,双手紧捂嘴巴。右边的猿猴双腿支地,前倾肢体,双手紧捂双眼,左边的猿猴大眼明睁,大嘴紧闭,双手紧捂双耳。即“三猿主义”。 【阳明门】日本国宝。是进入日本日光东照宫的第二层大院的大门。在日本谚语“不见到日光,不能说很好”中“很好”两字即“结构”两字。故又有“构造”、“布局”的双重意思。而阳明门的建造便实现了又牢又好的要求。故被==指定为“国宝”。大门共二层,第一层由10根汉白玉石柱支撑。其正、反面各有四根,两侧各一根。横梁用的是汉白玉。柱与柱相接处雕有龙头,上面是镂空的木结构斗拱。二层用的仍是汉白玉,柱头处雕有龙头。柱与柱间有雕花门窗。上面的木架上雕有龙头,飞檐起拱,四角用铜钤装饰。上面是蓝瓦覆盖,黄瓦压脊。整个结构浑然一体,庄重大方,既牢固又豪华。 【唐门】日本国宝。是进入口本东照宫的第三层院子的大门。其材料来自于中国,并使用了镶嵌技术,具有唐代建筑风格。门为白柱,上面雕刻有盘龙,横梁上雕刻了许多朝拜“圣上”的人物群像,更往上是精雕的花窗。门顶四周呈弧形,左右儋脊上镶嵌着两条活灵活现的青龙,前后有两个铜狮。 【禅昌寺】日本名寺。属临济宗妙心寺派。位于日本飞蝉木曾川国立公园的下吕温泉北面。里面收藏有许多国宝级文物。如白隐禅师和狞野永德的名贵字画、桃山时代的织部茶杯和唐人形砚籍等。另外还收有水墨画《雪舟》。 【神桥】日本重要文物。位于日本东照宫入口处的山谷。据说是当年胜道圣人在日本准备开山造寺时,因受阻于山川而无法顺利通往日光山。就中这时,突然从大山谷飞来两条大蛇,一青一红,两条大蛇在眨眼间架起了一座朱红大桥,后人便称之为“神桥”。桥长2.7米,宽6米,两旁的栏杆为木结构,全部被涂成红色。大桥无桥桩,中悬空呈弧形状,两端架在岸上。两岸青松翠柏,生气勃勃。桥下流水青青,爽心悦目。日本==为了保护文物,现已将此桥封闭,只许参观不许通过。并在神桥附近又修建了一座现代钢筋水泥桥,以便通往日光山。 【建长寺】日本镰仓五大名寺之一。位于神奈川县镰仓。其佛殿、法堂、紫云阁等建筑排在一条直线上。佛殿内供有主佛地藏菩萨像。佛殿左边有一棵柏稹老树。据说是中国宋朝高僧由兰溪道隆从中国带去的。寺中唐门是江户时代久能山的德川家庙移此后修建的,是口本重要文物。寺内还珍藏有铜制梵钟和彩色的兰溪道隆(大觉禅师)像等国宝。还珍藏有一些中国古代书画文物。 【妙喜庵待庵】日本江户时代的茶室建筑杰作。外观如同农家茅舍,顶棚结构复杂,简朴狭窄。茶室有二叠大小,但由于构思巧妙,所以二叠大的小小茶室却使人感到无限宽敞,反映出了建造者的独到之处。该待庵是利休生前最偏爱的-处。 【圆月桥】日本重点保护文物。位于东京文京区小石川后乐园内。该园是日本江户时代的水户藩主德川赖房请名匠德大寺左兵卫督工建造的。后由德川光国重建,并由当时韵中国著名学者朱舜水设计。因此,圆月桥是朱舜水亲自设计的中国式石拱桥,水多时,半圆形的桥拱便倒映于水面,宛如满月,故得名“圆月桥”。 【长崎孔子庙】位于日本长崎市大浦町。始建于1893年,由旅日侨胞所建。二战时遭到破坏。1982年,日本==又按照中国山东省曲阜孔子庙的规格进行重建工作。1983年10月重新开放。重建的孔子庙门前有精雕的石桥和汉白玉栏杆。大成殿内供有孔子塑像和四圣牌位。两旁是72贤人大型石雕像。每座像高1.8米左右,重2吨。并按曲阜孔庙内的祭器复制了全套祭器。两廊刻有《论语》的大理石柱上,每个字都贴了大赤真金。孔子庙后院有一幢楼,第三层没有中国历代博物馆,里面陈列着许多中国历史博物馆提供的中国古代文物。 【平安神宫】日本三大神宫之一。位于京都市左京区。1895年,适逢恒武天皇定都平安京(京都)1100周年,故建此神宫。总面积为3.3万平方米。其社殿原是桓武天皇和孝明天皇祭神之地,后仿平安朝皇中正厅朝堂院建造时缩小了三分之二。正门为应天门,是两层建筑,两端屋脊上是金色鱼尾形装饰。门内有龙尾坛。正面是太极殿,高17米,进深30米。殿内有52根红圆柱,殿两旁有苍龙楼和白虎楼,殿后是东西两本殿,分别供奉着桓武天皇和孝明天皇。神苑面积达3万千方米左右,分东、中、西三部分。旁边有日本明治、大正时代的回游式亭园,园内保存着日本京都最早的电车。每年10月22日,这里都要举行京都三大祭之一的时代祭。 墓葬类 【高松冢古坟】日本国宝。位于奈良郊区明日香路,飞鸟西南部,属日本飞鸟时代古坟。于1972年3月发掘,封土呈圆形,象一座山丘,故名。日本历史-亡有名的持统、钦明、文武等天皇的陵墓亦在此。日本==对此极为重视,故定为国宝。为了加强保护,日本有关部门又在附近按原样用了近两年时间仿选了一个同样大小的古坟,以便游人参观。 【仁德天皇陵】日本最高大的陵墓。位于大阪府堺市西北三国皇台地上。始建于5世纪初,占地面积48万平方米,墓前方后园,南北主轴486米,后面的圆墓高约35.5米。周围有许多座陪葬墓。 【日光东照宫】日本国宝。位于日本中部地区枥木县日光市日光山上。是日本德川幕府第一代将军德川家康的陵墓。德川家康生于天文11年(1542年)12月26日,三河国冈崎城。1600年,打败了反对的联军。1603年,取得征夷大将军称号,并在江户建立幕府,统一了日本。元和2年(1616年)4月17日死,终年75岁。初葬于骏府城附近的骏河旁久能山上,后第二代 将军德川秀忠遵循德川家康遗训,在日光选地 开基,建造东照宫,将德川家康的遗骨迁入东照 宫。到了第三代将军德川家光时,耗资160亿日元,集中了当时日本有名的能工巧匠数人,在宽永13年(1636年)最终建成日光东照宫。实现 了“不见到日光,不能说很好”的心愿。现东照宫 有23栋建筑物都被日本==指定为国家重要 文化财产,另有8栋建筑被定为“新国宝”。日光也因此被誉为“圣城”。东照宫三面环山,四周绕 川谷,左有金精峰、白根山、小真名子山,右有女 峰山,背后有男体山、中禅寺湖。绿树环抱,气势 壮观,入口处的“神桥”架在大谷川上,现日本==已将此桥定为保护文物。另修现代化的钢筋水泥桥,通过此桥便可到达日光山上的东照 宫。东照宫主要建筑物有神厩舍、阳明门、唐门、 祭神大殿等。神厩舍是占代养马的地方,为普通 木结构建筑,囚未上漆故显得陈旧,廊檐下雕刻 的三只维纱维肖的猿猴,体现出了日本“三猿主 义”(非礼勿说,非礼末闻,非礼勿看)的实质,阳明门为第二层院的大门,共有二层,石柱均为汉 白玉,体现出了日本谚浯“不见到日光,不能说很好”的建筑要求。唐门是进入第三层院子的大 门,具有中国唐代建筑的风格,木材都是从中国进口的,充分反映人在建筑方面的水平及才干。 祭神大殿宽敞协凋,内烟雾缭绕,鲜花供奉,并 有德川家康庆长9年正月1 9日花甲之际的遗 训:“人之一生,如负重远行,且忌急躁。常思坎 坷,则无不足;心有奢望,宜思穷困;忍耐乃长久 无事之基。愤怒之敌,骄傲害身;责己宽人,自强 不息。”其后便是以一片松林为背景的德川家康墓。东照宫、康门、阴明门均被定为国宝。 遗址类 【贝土冢】日本旧石器时代遗址。位广日本本州岛人阪市西南,于中世经兴起,19世纪下叶工业发达,1934年成为市。曾因堆积了大量的贝类食物残壳,渐形成上冢。故得此名。 【江户城遗址】位于日本东京都中心干代田区。江户城初建于15世纪中叶。庆长8年(1603年)德川家康在此设立幕府,成为日本首都。明冶元年(1868年)又改名为东京。最初规模很小,后来,德川家康于庆长11年下令进行大规模的修建,到厂德川家光时的宽永13年(1636年),大规模的扩建才渐渐停止。当时的江户城南北长4公里,东西长5.5公里。四周有内壕和外壕。有两重城廓。城内主要建筑物有36个城门、20座望楼、本丸、二之丸、三之丸、西之丸等宫殿。因为这里保存有许多江户时代的历史遗迹,所以日本==特定为“国家特别史迹”。并加以保护。外壕现已被填平。城门仅存“田安门”、“清水门”、“樱田门”。望楼仅存“国安门”、“樱田橹”和“富士橹”。本丸、二之丸、西之丸和五层城楼天守阁曾遭火焚未建。本丸、二之丸曾是德川幕府统治核心地,战后建立丁东御苑。西之丸曾是江户城发源地,明治维新后建立了皇宫。东御苑遗划:已于1968年义重建了新宫殿,江户旧城的正门即现苑内的大手门。另外还有德川幕府时进谒将军的最后一个检查守卫站“百人番所”及过去将军的私邸、皇后的音乐堂“桃华乐堂”、富士见橹、天守台残迹等。东御苑内的二之丸庭园建于宽永7年(1630年),1960年又重修,园中天池壕旁种有日本全国47年都道府县的名贵树木260棵。皇宫正门二重门内,有高约13.4米的仪见橹,据说是德川家康从京都伏见城移来的,白壁灰顶。皇宫内有7栋战后新建的宫殿,占地面积2300千方米,绿瓦,白墙,彩柱。“松之阁”为皇宫厂殿,皇室主要活动都在此举行,“丰明殿”为宴会厅,“吹上御所”为天皇居住地。二之丸则于1969年被开辟为公园。 【箱根关所】日本江户时代的关卡。位于箱根芦湖对岸箱根町。始建于元和5年(1629年)。是为了防止地方上出现叛乱、秘密偷运武器、家族移动等现象而建立的。过往行人要受到严格的检查和搜身。明治2年(1869年)拆除。昭和40年(1965年)5月,当地部门又重建此关所,并在此处专门建有资料馆,主要建筑物有”御关所”石碑,“御番所”的一套房子(上御番所、座敷、胜手、中坪、御番所)等。资料馆内珍藏有过去的-些文书、印鉴、资料、武士盔甲、刀剑、生活用具等。现日本==已对此关所进行了重点保护。 【中岛圣堂大学门】日本最古老的孔庙遗迹。位于长崎市兴福寺内。正保4年(1646年)在日本马场三郎左卫门的大力赞助下,日本儒学家向井元主持建造厂孔子庙,命名为“立山学院”在长崎县东山町。宽文3年(1663年)遭火焚,重建于中岛川畔,并改名为“中岛圣堂”,内有圣庙、杏坛门、棂星门、明伦门、书库、崇圣祠、辅仁堂等建筑。1958年,长崎巾将中岛圣堂大学门移入兴福寺。1960年,日本==将其定为“重点文物”。
回复

使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 注册账号

本版积分规则

小春网
常务客服微信
微信订阅号
手机客户端
扫一扫,查看更方便! 快速回复 返回顶部 返回列表