不死の魂--イデア論
プラトンによれば、人間の魂は、この肉体に宿り、肉体と結合する以前には、なんとあの天上のイデアの世界にいて肉体の感覚を持たずに、純粋に魂の目で、すなわち理性の目で永遠のイデアそのものだけを見て幸せに暮らしていました。しかし人間の魂は、あるときこの地上に落下し、母親の母体の中で肉体と結合することになりました。そしてこの地上へ降りて母親の母体にたどり着く際に、人間の魂は、 忘却の川を渡ったため、かつて見ていたイデアの記憶をほとんど喪失してしまいました。
ところが人間の魂は、この地上でイデアに似たもの(イデアの写し)に出会うと、その忘れていたイデアの思い出がおぼろげに浮かび上がってくるというのです。
ところが人間の魂は、この地上でイデアに似たもの(イデアの写し)に出会うと、その忘れていたイデアの思い出がおぼろげに浮かび上がってくるというのです。つまりプラトンによれば、人間は、イデアを知るのではなく、既にイデアを知っていて、それを心の中で思い出すのです(アナムネーシス)。このような考えをプラトンの「想起説」といいます。たとえば、私たちがこの美しいバラを見て、これがバラだと言えるのは、このバラのイデアを思い出したからであり、それが美しいと言えるのは、美のイデアを思い出したからなのです。
そしてプラトンによると、人間が、たとえば美しいものを見て美のイデアのおぼろげな記憶を呼び覚ましたとき、自分もかつて暮らしていた魂の本当の住まい、つまりイデア界への憧れも目を覚まします。。。プラトンは、この憧れを「エロス」と呼んでいます。それからというも、人間の魂は、この肉体やすべての感覚にまつわるものを不完全などうでもいいものと見なし、この肉体という魂の牢獄から自由になって、エロスという愛の翼に乗ってイデア界に飛んで帰りたいと思うようになるのです。このような愛つまりエロスが、冒頭の哲学という言葉の説明で述べたエロスと同じものであることは明らかでしょう。。。人間は、呼び覚まされたイデアのおぼろげな思い出には飽き足らず、イデアの世界に帰って、本当に存在する永遠のイデアを何とかして直視したいと思うのです。イデアへのこのような熱烈な憧れが、プラトンにとっては哲学でした。知を愛することとは、永遠のイデアを愛することなのです。私たち人間は、このイデアを知ろうとすれば、イデアへの熱い思い出を胸に秘め、感覚的なこの世界から目を転じ、エロスの翼に乗ってこのイデアの世界に帰り、魂の目で、つまり純粋な理性・思惟によって、イデアを直視しなければなりません。。。
哲学--死の練習
哲学は、結局、プラトンにとっては、イデアを愛することなのですが、このためには、魂の目を肉体の感覚から引き離さなければなりません。なぜならイデアは、この感覚界から離れて,どこか他の所にあり、しかもこの肉体の感覚は、永遠なものを見ようとする魂の目を曇らせ、我々の魂の目をイデア界から引き離し、この滅び行く感覚界に閉じ込めるからです。しかし魂の目を肉体の感覚から引き離すということは、要するに肉体と魂の分離ですから、このことは人間の死の状態を意味します。したがってプラトンは、ソクラテスの刑死直前の模様を述べる『パイドン』という作品の中で知識を捜し求めること、すなわち哲学することについて次のようにソクラテスに言わせています。。。「知を捜し求めること(哲学すること)とは、まさに死の練習である」と。哲学は、真の知識の獲得を妨げる肉体からの脱出を伴うがゆえに、「死の練習」なのです。。。プラトンによると真の知識を捜し求める者にとっては、肉体と魂とを分離させる死は恐れるべきものではなく、むしろ永遠不変のイデアへの道を開いてくれる点で歓迎すべきものとされています。。。
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