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私の留学生活
成美大学 蘇 丹
日本へ留学できることを成美大学の先生から聞いた後、嬉しくて、嬉しくて一晩中眠れなかった。しかし、日本へ行く日が移るに従って、心もびくびくして落ち着かなかった。日本は一体どんな様子だろうか?私は、言葉、習慣、食事など、その異国の暮らし馴染めるか?いじめられたどうしよう?胸がドキドキして不安を持って、飛行機の二時間は二年よりも長い感じだった。いよいよ飛行機の放送、大阪空港に到着のアナウンスが流れた。私は待ちきれなかった。窓を通して首を長くして見て、空と海が一つに溶け合う美しい眺めを楽しんだ。「うわあー本当にきれい」。噂と一緒で、日本に対してはじめのイメージはすごくきれいな環境であった。迎えに来た友達と一緒にJRに乗って福知山へ来た時、中国と全然違って、電車の中の乗客は新聞を読んだりイヤホンで音楽を聴いたり非常に静かにのんびりしていました。実は、中国の場合、バスの乗客は、本や新聞を読む、イヤホンで音楽を聴くじっとしている方も珍しくないが、やっぱり友達と喋ったり笑ったり、携帯を使ったり、おやつを食べたり、賑やかな場面が多いと思った。
「日本人の場合は、できるだけほかの方に邪魔をしない、ぜひその点を覚えてね。」迎えに来た先輩はそのように私に言った。
車窓を過ぎ去る風景にぼっとした私、こっそりと自分に聞いて「私、スラムダンクを読んだ後、日本に興味を持ち始めた。ということで、私知っていた日本はすべて漫画の中の日本である。本物の日本の留学生活、一体どうなっているのだろうか?」、そのような考えを持って、ずっと黙って心もおどおどした。
10時過ぎ、福知山に到着した。この場所はこれから二年の暮らしの故郷である。「こんばんは、よろしくお願いします。福知山」ぶつぶつ自分に言った。日本の生活が始まった。
もう3月の末だが、日本の夜はまだ寒さを感じ、町の女性たち、とくに若い方は、みんなは夏のように短くて薄いスカートを着ていた。「寒くないの?」心の中で、そのような疑問が生まれた。「噂の日本人の我慢は、多分これかな。」そう考えながら、友達を連れて、駅前の中華料理店に入った。店員さんはすぐ水を持ってきた。こんな寒いのに、水の中に氷が入っていた。中国のレストランでは、必ず暖かいお茶を、少なくともお湯をもらった。私、暖かいものを飲みたいが、周りの皆さんも平気でゆっくり飲んで、電車の中、友達の話を想い出した。「お湯ください」という度胸もなかった。その時、日本にいる感じがだんだん出た。中国の両親の顔も会いたかった。
次の一週間、日本と中国の違いにだんだん慣れてきた。ゴミは種類によって捨てる時間も違う。野菜や果物はばら売りとして売られている。買物時は必ず5%の消費税をつけなければならない。水道の水はそのまま飲んでも大丈夫。中国では、いつもお湯を沸かして飲める。中国の運転方向と逆だけれども、自動車は自転車に譲り、自転車も歩行者に譲るのが安心した。
それに、日本の学生たちは人見知りしないように、中国の学生より元気みたい。これは日本の学生さんに対する第一印象である。初めての授業で、手紙をもらった。「めっちゃおもろい、人間の温かみを感じて」不安感もう半分消えた。
どこでも、気心の知れた友達と出会ったら、幸せなことと思う。私は、非常にラッキーで、そのような人二人出会った。徐さんと美紀ちゃん、徐さんは前、中国ですでに友達になって、それはもちろんの幸いのことだった。異国で、自分の国の先輩と一緒に住むなら、いろいろなところも教えられるのがラッキーと思った。しかし、ここで言いたいのは、美紀ちゃんと出会ったことである。はじめ出会った時、たしか学校の入学式、実に美紀ちゃんに対する第一印象は「名探偵コナン」の中、灰原哀と同じなイメージで、ちょっと小柄な冷たい女の子である。次の授業ちょうど一緒に座るから、彼女に話した。
「すみません。それから、授業が同じなら、ずっと一緒に座っていいですか?」
「いいよ」
「それから、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。」
その簡単なあいさつをはじめに、私たちの間の不思議な友情が始また。本当の不思議だった。
私と彼女の誕生日も一緒、血液型も同じで、好きなものは抹茶味の物である。性格さえも似ていて、少しマイペースな感じ、人と喋ることが苦手である。
一緒に旅行へ行くこと、神様に願うこと、図書館で映画を見ること、おしゃれなレストランで食事すること、浴衣を着て花火を見ること、一緒なら、すごく嬉しくなって、元々無口な二人はいつも笑いさざめいた。
外国で、そんな親しみのある友達と出会ったこと全く思いもつかないことだった。七歳下の美紀ちゃんはいつも私のことを見て、気にしてくれる。料理苦手の私に何度も美味しいものを作ってくれた。寂しい生活に飽きた私を自分の家に誘って、家族の方に紹介して、自分のお母さんの愛情を私に分けてくれた。学校の勉強の中で、理科が苦手の私に何度もきちんと説明してくれた。私の下手な日本語、中国人にも理解がしにくい、彼女がまじめに私の言葉を聞きながら、理解してくれた。美紀ちゃんは、私にとって、大切のような存在である。本当に強運を持っているかもしれない。
学校の活動のために、大江町の田植えをきっかけに、定年退職した日本人の教師夫婦の娘になった。日本のパパママは、本当の両親のように、娘の姿を見るために、私のバイト先へ来てくれた。パパから植えた西瓜や葡萄もらって、ママと一緒に料理を作って、恋のことを喋った。中国の両親と一緒のように「生活や勉強も頑張って、体に大事に、バイトはしんどいダメ、お金がなければ、応援するわ」と私に言った。前日、舞鶴の小学校へ行って、子どもたちの無邪気な笑顔で癒された。中国語教室の私の生徒たちも、私の下手な教え方を大目に見てくれた。舞鶴の子どもたちからもらった手作りの金メダルの中に「日本に来てくれてありがとう」と書いてあった。最近、私は、いつも「日本に来て良かった。私、幸せ」とそのような考えになっていた。
もちろん、日本に留学の日々の中で、楽しいことばかりではなかった。中国と日本の間、時差は一時間だけだが、違う所がたくさんある。
前のアルバイトは配達屋の仕事だった。カートの中に、注文されたものを入れた。スピードが早いために、なすを箱の中に投げて、ちょっとパンに当たった。
「何そりゃあ」と言いながらじろりと睨まれた。
バイト先の応援さん(遅れているチームを手伝う人)は怒って言った。応援さんは普段いつも命令語を使って、人相も怖いけれども、ものを取った時、非常にやさしくて仕事中もバリバリしてしっかりした方である。
いいマナーではないが、中国の場合はお互いにものを投げても平気だ。ものに対してそんなに大切ではないと思う。日本にいる私、日本人にもの、とくに食べものに対する大切な気持ち全然気づいていなかった。今までも悔しかった。
外国での生活は苦しくてさびしい。とくに留学生活は、アルバイトも勉強も両立させるって、みんなそう言った。私も中国の両親、親友を懐かいと思った。自分は自分の未来をすごく迷って心配して、かつて、夢の中で、神様もナレーションを通じて「あなたのめちゃくちゃに走り回る人生、一体何のものになろうか?此方、静観するよ。」と私に言った。しかし、日本へ留学の選択は、自分を信じることと努力の理由と勇気をあげたいものである。当然、夢とか、勇気とかすべてアスピリンみたいなもので、それより現実の生活のほうがもっと難しいと思った。それを知っているのに、私も自分の留学生活が幸せと思った。幸せというものは、私にとって、すごく簡単なもので、留学のことを大切にして、自分の好きなことをやって、日本の毎日を味わって楽しむ。いろいろな人と出会って、新しい価値観を知る。自分も間違った所はいっぱいで、若いから、あやまちを悟ればあらためる。前途の見通しがまだ付かないが、自分はちょっとずつ前に一歩一歩に行くと、できるだけ今より素敵な自分になることは、幸せだと思う。